都紀女加王墓前バス停で待つ。

長崎生まれ佐賀育ち 中高福岡大阪在住 完全趣味の自己満足ブログ。 @tsukimecha

佐賀戦国史 第2話 少弐氏、滅亡

以前→https://tsuki-mecha.hatenablog.com/entry/2019/09/14/182638

 

後を継いだ少弐冬尚は、父資元に援軍を出さなかった龍造寺家兼を糾弾し一族を謀反の罪で粛清し始めた。龍造寺家兼は幼き†隆信†を連れて柳川に逃げ、蒲池鑑盛の庇護下に入る。

 

少弐冬尚は少弐氏再興の為大内氏の参加に入ることを受容した。しばらくして成長した柳川の†龍造寺隆信†は肥前奪還の兵を挙げる。蒲池鑑盛の支援もあり村中城(佐嘉城)を奪い取った龍造寺軍は少弐冬尚の軍勢と争いこれを撃破。こうして少弐氏は元家臣の龍造寺氏によって滅ぼされることとなった。典型的な下克上による戦国大名龍造寺家の誕生である。

 

龍造寺隆信†はこのころ†大内義隆†と結び、「隆」の1文字を貰った。その後も肥前国の敵対勢力を滅ぼしながら肥前国全域を支配するに至る。

 

しかし、ここで大内氏に大事件が起こる。政治に興味を示さなくなった主君†大内義隆†に対して家臣の陶晴賢が謀反を起こし、義隆が討たれてしまう。そしてこの後を継いだのが養子の大内義長であるが、なんとこの人物は大分の戦国大名である†大友宗麟†の実子であったのだ。

 

これを機に北九州の覇権は†大友宗麟†に移る。元大内領を次第に大友領に変えていく宗麟。毛利氏の反発を受けながらも外交戦術を巧みに駆使してこれを対処し、遂には肥前国東部を支配下に置こうとした。

 

6万とも号する大軍で佐嘉城に攻め寄せる大友軍。それに対して肥前国統一で兵力が分散していた龍造寺軍はせいぜい5千の兵しか用意できなかった。

大友宗麟†は高良山に布陣し龍造寺軍の出方を伺う。少数ながらも敵を寄せ付けない龍造寺軍。だが、†龍造寺隆信†を支援していた柳川の蒲池鑑盛は既に大友方に着いており龍造寺軍に援軍を出す勢力はどこにもなかった。これを見抜いた大友宗麟は業を煮やし本格的な攻撃を命じる。龍造寺軍の全滅は必至だった。

 

 

次回予告

北部九州を抑え一大勢力となった大友家。それに対して肥前国の東部をやっと統一できた龍造寺軍はまだまだ脆い存在であった。同盟国もなく孤立した龍造寺軍に大友の大軍が襲いかかる。10倍以上の敵に勝利することはできるのか。

 

次回、今山の大勝利

司馬懿という男 下

先に上を読んでね

 

 

諸葛亮の死により魏はいくぶん安堵することになる。だが、大きな敵がいなくなった時その国の団結力は弱まり国内が荒れ始めるものである。時の魏の皇帝曹叡諸葛亮の死後酒に溺れ子供も作らず早逝し、幼い曹一族の曹芳が皇帝となる。まだ政治ができない曹芳の補佐としてあげられたのが司馬懿と曹一族の曹爽であった。

 

司馬懿諸葛亮の死後も国内の反乱鎮圧などで功績を挙げており、名声は高まり諸将の人望も次第に得ていった。そんな司馬懿を曹爽は恐れ、司馬懿を政界から遠ざけようとする。司馬懿はそれに対抗することもなく屋敷に籠り、遂には病気を患う。安心した曹爽は魏の実権を縦にするのだった。

 

しかしこれも司馬懿の罠だった。司馬懿は痴呆のふりをして曹爽からの見舞いの使者を欺き続けたのだ。慎重だった曹爽が都を少し留守にした途端に司馬懿は兵を挙げ、都を占拠し曹爽派の粛清を始める。皇帝曹芳もこの政変を見過ごすことしかできず、これを機に魏の実権は完全に司馬懿のものとなった(正始の政変)。

 

このご司馬懿は本当に病に罹り死んでしまう。子供の司馬師司馬昭に残した遺言は「くれぐれも慎め」であった。曹操に仕える時然り、諸葛亮との対戦然り、曹爽に対しても然り、機を伺い続ける司馬懿らしい言葉だ。

 

そ・の・後司馬懿の後を継いだ司馬師は魏の実権を手中に収めながらも魏の臣下として人生を終えた。その弟司馬昭は魏の皇帝の下で晋王となり魏の皇帝曹髦を暗殺するなど力を振るうが帝位を簒奪まではしなかった。

 

司馬昭は263年に三国の1つ蜀を滅ぼす。その2年後265年に病死し後を継いだのがその息子司馬炎。晋王を継いだ司馬炎は魏皇帝曹奐に禅譲を迫り、晋皇帝として即位し魏は滅びる。これは45年前に曹操の息子曹丕後漢の皇帝献帝から帝位を奪い魏を建国したのと全く同じ形であった。魏は自らが行った禅譲によって滅びたのである。

 

曹操曹丕が行った魏建国の流れと司馬懿司馬師司馬昭司馬炎が行った晋建国の流れはとても似ている。そして司馬懿曹操曹丕の行った魏建国の流れを間近で見ていた。これを見た上で自分の子の代で晋の建国を焦り早まらせないようにするべく残した言葉が「慎め」だったのかもしれない。面白いね、三国志

司馬懿という男 上

第何弾かはもう分からんけど今回は三国志から司馬懿三国志を彩る英雄の中で個人的に一番好きかも。こいつは凄いよ。

 

もともと司馬一族は周代からずーっと続く名門で時の権力者に仕えていたイメージ。司馬懿の父司馬防は曹操に支えてた。

 

荀彧編で書いたけど後漢の衰退に乗じて曹操は早々に勢力を拡大して錚々たるメンツを従えて魏の基盤を創造した(https://tsuki-mecha.hatenablog.com/entry/2019/07/22/183030)。

 

司馬防の子供は司馬八達と呼ばれてみんな賢いことで有名だった。その中でも一番の有望株が司馬懿仲達。曹操司馬懿に自分に仕えるよう要求するも司馬懿は承諾しない。何回やっても承諾しない。最終的には司馬懿邸に刺客を放って仕えるよう迫った。こうして司馬懿曹操に仕えるようになった。司馬懿は自分から進んで曹操に支えたわけじゃないんだよね。

 

でも三国志中ではそんなに曹操と一緒のシーンではでてこない。司馬懿が活躍するのは専ら曹操の死後、曹丕曹叡の代である。それでも曹操の代で呉を一時的に魏に降伏させた策は司馬懿の手柄だろう。

 

三国志の物語は劉備曹操の死後、主人公は諸葛亮に移り北伐(蜀と魏の戦)を繰り返す諸葛亮に立ちはだかるライバルとして司馬懿が描かれる。諸葛亮は5回北伐を行なってるけど失った魏の地はたぶん武都と安平くらい。これは司馬懿諸葛亮の策に乗らず慎重な戦いを繰り返した成果だと言える。

 

ち・な・み・に諸葛亮は天才軍師だとよく呼ばれるけど実際それほど大きな勝利は少ない。赤壁はほとんど呉の手柄だし、漢中での戦は諸葛亮だけじゃなく法正の活躍も大きかった。しっかり勝ったのって南蛮征伐と西羌戦くらいじゃないかな?あ、周瑜は痛い目見てるけど。それより諸葛亮は政治が上手い。外交戦術を駆使して国力が魏の9分の1とも言える蜀を守った功績は大きい。

 

話を戻して、司馬懿諸葛亮を何度も防ぐうちに魏の中でかなりの力を得るようになる。そりゃそうだわ。曹操の配下だった将軍たちの子供が魏を守る将として存在し、それを動かすのが司馬懿だったのだから。

 

司馬懿が軍事面で大活躍して魏で力を伸ばすのを快く思わない将らも少なからずいた。例えば曹操の親戚である曹一族にとって司馬懿は脅威でしかない。この両者の対立が決定的になるのが諸葛亮の死後である。

続く

 

 

なんか長くなりそうだったから上下分けるわ。ってか最近色んな人のブログ読むようになって思ったけど私のブログ長くね?

 

地元巡りツアー

9月初頭に九州で部活の試合があって、そのまま友達と私の地元を巡りました。育った吉野ヶ里。中学受験に向け電車で通った塾のある佐賀。中高のある久留米。んで浪人した予備校のある博多。

 

試合中はホテルが博多にあったからもう懐かしくてしょうがない。浪人してたのも3年前。朝7:03に吉野ヶ里公園駅を出て博多に8:32に着く門司港行き各駅停車(415系8両)に乗ってたのを思い出す。お世話になった某代々木ゼミナールを横目に、息抜きに抜け出してデュエマの大会出て優勝しちゃったカードショップとかキャナルシティとか回った。

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大会終わって向かったのは久留米。

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私は高校時代から寮に入り先輩から譲り受けた自転車で久留米を縦横無尽に駆け抜けた。その頃を思い出したくてレンタサイクルで巡った(決して免許持ってないからではない)。特に変わらない景色でそれがまた良かったのだけど西鉄久留米ドン・キホーテが出来てて少しびびった。合川にもあるのにね。

寮生御用達のビッグもあったし隣のケーキ屋もしっかりあった。ここのシュークリームが私はめちゃくちゃ好きでよく友達にも勧めてた。

 

大雨の後だったから筑後川の河川敷は泥だらけだった。「この駐車場は水没します」の看板を見せたかったのだけれどどこにあるか忘れちゃった。中学時代テスト終了日に学校から鳥栖駅まで3時間近く歩いて帰ったのを思い出す。筑後川の支流で靴脱いでズボン捲り上げて水切りしたりして遊んだものだ。

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んでバスで吉野ヶ里に戻った。西鉄バス久留米番号40番。西鉄久留米初佐賀第二合同庁舎行き。西鉄バス久留米の番号は40番代が基本佐賀方面行き。40、41、43、45、48。42とか44とかが無いのは語呂が良く無いからかな。降りるバス停はもちろんここ

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うちのブログのタイトルにもなってる都紀女加王墓前。今回は降りたから待つ事はなかったのだけど。元は坊所ってバス停名だったんだよね。

 

2日目は佐賀、吉野ヶ里巡り。佐賀県庁の屋上にある展望レストランで昼食。駅から県庁までの道のりはクソ暑かったけど行った甲斐あった。

その後吉野ヶ里公園。旅のメインディッシュは最後に取っておかないとね。広いし世界観出てるし普通に私は良いところだと思うんだけどどうなんでしょうね。やっぱつまんない人にはつまらないのかな。オススメはもちろん物見櫓からの景色。公園の外も田園風景が広がってるおかげで違和感ない景色が見れる。中から外の高速道路が見えるユニバなんかとは違うんだ。

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こんなに晴れてたのに急に土砂降りの雨が降ってきた。急な天候変化、弥生時代をよく再現してる。

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佐賀戦国氏 第1話 少弐氏の衰退

日本の歴史の中でもファンが多い戦国時代。日本史では織田信長とか豊臣秀吉とかしかやらないけど、もちろん日本各地でたくさんのドラマが生まれた。

中でも九州は勢力の変遷が著しく九州三国時代とも呼ばれる。ただ中央とあまりにも離れすぎていたため日本全土に影響を及ぼすことが無かったからそんなに知られてない。今回は九州の中でも私の地元佐賀の戦国時代を見ていく。

 

鎌倉〜室町時代にかけて佐賀を含む北部九州で勢力を誇っていたのは少弐氏という家系。元寇の際大宰府の責任者として戦った少弐景資の子孫。元藤原家。少弐ってもともと公家の階級の名前?だったよね。藤原っぽい苗字やわ。南北朝の動乱を経て弱体化したけど(筑後川の戦い)戦国初期はまだ少弐氏が力を持ってた。筑後川の戦いはかなり面白いからこれだけでまたブログ書く。

 

九州、特に肥前国(佐賀)は国人が多かった。神代氏、姉川氏、相知氏、、、、龍造寺氏などなど。それらが少弐氏の君主に使える形であり、君主が力を落とせば一気に瓦解する構造だった。

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↑佐賀の地名に連なる名前も多い。佐賀なのに千葉っていう名字が多いのはこの時からなんや。

 

そんな時、少弐氏に大きな脅威が迫る。長門国戦国大名大内氏の台頭。大内氏は交易で得た豊富な財政力を元に勢力を拡大。山口は西京都の異名を持つようになり国は栄えた。†大内義隆†の代になるとその勢力は北九州にまで及ぶ。最大の交易港博多も落とされ、少弐氏は大内氏に押され、ついには当主政資が討たれ一時滅亡。肥前の国人は互いに争い佐賀北部は渋川氏、南部は千葉氏の支配下になる。

 

後に政資の子の資元が少弐氏を復興させ、千葉氏を追い出し肥前国の支配を回復。でも大内氏はまだまだやってくる。遂には肥前国にまで入って我が吉野ヶ里町を流れる田手川で少弐軍と大内軍は激突(田手畷の戦い)。少弐氏配下の†龍造寺家兼†はなんとこれを撃退。一気に少弐家家臣団の中で影響力を高める。ち・な・み・に田手川の近くのうちの小学校では運動会で「田手川の合戦」っていう種目があったんだけどこれが元になってるかは謎。内容はただの棒引き。

 

しばらくすると大内氏は出雲の戦国大名尼子氏と対立したり何かと忙しくなったから九州での侵攻は止んだ。結局色々あったけど肥前国は少弐氏のものになったまま。領土はかなり減ったけど。大内義隆田手畷の戦いを見て敵の龍造寺家兼を評価して寝返るよう催促した。家兼は拒否したんだけど、後にまた大内軍が少弐軍と戦ったとき家兼はなぜかあまり救援を出さなかった。結果少弐資元は負けて自害、少弐冬尚が後を継ぐ。もちろん、龍造寺氏への疑念を抱きながら。

 

はい、ここまで。

 

〜次回予告〜

衰退から大内氏傘下に入ることを余儀なくされた少弐氏。新当主冬尚は家臣の龍造寺氏を謀反の罪で糾弾。龍造寺家の者が数々殺される中佐賀を捨て柳川に流れる龍造寺残党。その中には出家した少年、後の†隆信†の姿もあった。巻き返しを図る龍造寺氏に少弐氏は対抗できるのか。

 

次回「少弐氏、滅亡」

 

R元年8月

この1ヶ月いろーんなところ行ったので総まとめ。

 

8/2 伊勢神宮、鳥羽(三重)

https://tsuki-mecha.hatenablog.com/entry/2019/08/02/212749

御朱印帳買えたのが嬉しかったね。橿原神宮では売り切れだったから。御朱印集めは神武天皇即位の地から始めたかったけど、伊勢神宮もその5代祖先の天照大神だから問題無し。

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8/11 帰省(佐賀)

「赤!黒!」帰って早々親から言われた一言目。赤黒ってドルマゲドンかよ。嘘と盗みのエンターテイナー。

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夜の佐賀呑み→カラオケもまた最高でしたね。中高とおそらく一番良く一緒に遊んだ友とサシでした。今度は9000枚当てる。

 

8/12〜13 帰省、青島神社宮崎神宮住吉神社(宮崎)

https://tsuki-mecha.hatenablog.com/entry/2019/08/14/192401

「髪が都会に染まった」私を見て早々祖父に言われた一言。名物の辛麺も冷汁も地鶏も食べれて満足。ちなみに住吉神社は日本各地にあるけど宮崎の住吉神社はそれらの元祖。「元」っていう字が特徴的。

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8/14 博多、櫛田神社(福岡)

帰省から戻る途中博多で時間ができたので友達に付き合ってもらって博多を歩いた。まぁ途中から雨降ってきたのでほとんど駅地下のマック(浪人中狂うように行った)に避難してたけど。博多山笠で有名な櫛田神社にもお参り。ジオキャッシングhttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/ジオキャッシング)で3年前に行った記録が出てきてエモエモのエモ。

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8/19 天橋立、元伊勢神宮(京都)

初の日本三景。曇りだったけどとても綺麗だった。佐賀の虹の松原を思い出した。展望台での股覗きが有名らしいけど、男一人で股覗きするのは地獄絵図だから辞めといた。

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8/21 箕面大滝(大阪)

高校時代私は卓球部の副部長だったわけですが、その時の部長が遊びに来ました。「涼しいとこに行きたい」しか喋らなかったので涼しそうな箕面大滝でも行くか、となったわけです。まず箕面駅まで出て歩いて約1時間。マジで遠いし暑いし何度も途中引き返そうか迷ったけど滝見れた時はそんなもん吹っ飛ぶくらい感動でしたね。

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8/23〜26 四万十研修(高知)

https://tsuki-mecha.hatenablog.com/entry/2019/08/28/083526

ただただ良い研修。そしてご飯が最高。この1ヶ月まじで美味いもん食べまくってるから忙しさを忘れるくらい幸せだった。

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8/26 岡山城、後楽園(岡山)

研修帰りに寄った。ほんの少しの時間で後楽園を電撃観光。想像以上に良かったから残りの偕楽園兼六園も行きたい。

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以上。大阪、三重、佐賀、宮崎、福岡、京都、高知、岡山。2府6県を巡った男。そして明日から試合で再び福岡。なんじゃこれ。

 

 

四万十旅行記

ゼミの研修で高知県四万十市に行ってきました。

 

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四国は九州から特急王国の座を受け継いだ、個人的に大変興味深い地方。しおかぜ、南風、あしずり、しまんと宇和海、いしづち、色々走ってる。

昔はあしずりってそんなに走ってるイメージなかったんだけど今ではかなり本数走ってるんやね。南風が中村や宿毛まで乗り入れてた記憶があるけど今では全部高知止まり。宿毛〜岡山館を6時間くらいかけて走ってた南風の姿はもうない。

 

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人生2度目の瀬戸大橋。1度目は高校の卒業旅行で松山に行ったとき。曇ってたけど良い景色だった。

 

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途中の大歩危あたり。THE渓谷って感じ。絶景続きでふつーに観光列車に乗ってる気分だった。

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西暦2000年にあやかって作られた2000形気動車、かなり力強い走りを感じた。カーブのカントがすごい。高速化工事もバッチリ。そういえば今回の研修に来てた後輩に2001年生まれの子がいて時代の流れを感じましたね。

 

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綺麗すぎる川、雄大すぎる景色、美味しすぎる食、暖かすぎる人の和。研修地の四万十市はそんな感じだった。テレビでよくタレントが田舎に出向いてその地域の人がめっちゃ優しくてご飯作ってくれるみたいなやつ。まさにそれ。行ったら莫大な量の皿鉢料理(さわちりょうり)作ってくれてるしたくさん話してくれるし。こんなん一回来たらまた来たくなるやん。就活やめてこっち来たい。

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研修ってただ知識増えるだけかと思ってたけど今回は考え方も見方も変わったし身体の芯から磨かれた気がする。一つ一つの衝撃や感動が私の人間性の層をより厚くしてくれた。

 

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帰りはちょっと時間あったから岡山に寄って後楽園を見に行った。岡山の街の雰囲気結構好き。路面電車も走ってて都会感と田舎感がちょうど良い具合に共存してる。後楽園と聞いたらキジマ後楽園遊園地を思い出すのが九州民のSAGAだと思うけど、本家後楽園には意外にもジュピターもポセイドンも無かった。ただただ綺麗な庭園だった。

 

研修先で整体師?に施術してもらったんだけどあれがめちゃ気持ち良かった。そして今私の首は寝違えでほとんど動かない&痛すぎ。動けないのでベッドでこれ書いてる。あの整体師をここに召喚したい。