神聖ローマ帝国史第3講 諸侯の性質
前回→https://tsuki-mecha.hatenablog.com/entry/2020/06/12/093922
前回に皇帝について話したので今回は諸侯について。
神聖ローマ帝国成立前のフランク王国時代から各地に諸侯が置かれていた。諸侯を置く理由は簡単、広い統治を王一人で全部治めるのは面倒だから。諸侯の種類の例は以下の通り。
・その地を治める「伯」。各地に置かれた。
・もっと広い範囲、またはその部族を治める「公」
例…ノルマンディー公、バイエルン公など
・フランク王国は現在のフランスを拠点としているので、拡張の方向は南のイスパニア(現スペイン)や東のゲルマニア(現ドイツ)。そして、それぞれの拡張の拠点としての「辺境伯」。
これらを合わせて「世俗諸侯」と呼ぶ。彼らはフランク王や神聖ローマ皇帝に忠誠を誓い、代わりにその土地の支配や様々な特権を認められた。日本でいうと鎌倉幕府の守護や地頭と将軍の関係性である「御恩と奉公」みたいな感じ。西洋ではこの封建的関係をレーエン制と呼ぶ。
世俗諸侯は基本的に世襲によって支配者が変わっていく。時に争い、時に婚姻を繰り返しながら別の諸侯を併合したり分割したりした。神聖ローマ帝国がバラバラだったのはだいたいこいつらのせい。
一方、世俗諸侯に対して「聖界諸侯」というものもいた。大司教や司教など。彼らはもともとその地域にキリスト教を広めるべく置かれた存在である。異民族を統治する際、キリスト教の考え方、価値観を浸透させておけばスムーズに進むからだ。
聖界諸侯は時にはローマ教皇の代理としても機能する。なので、国内に置いて常に半独立性を持っていた。神聖ローマ皇帝自らが置いた司教座もあれば、古くは4世紀からある司教座もある。皇帝に対する従属度も様々。
聖界諸侯は選挙によって選ばれるので世襲されない。なので、大きな勢力を持つことはそれほどなかった。だが、宗教的影響力は凄まじい。神聖ローマ帝国はローマ教皇によって認められたいわばカトリック帝国的性質も帯びていたので、皇帝は聖界諸侯に対して強硬的に行くことが難しかった。
神聖ローマ帝国史 第2講 皇帝権の性質
前回→https://tsuki-mecha.hatenablog.com/entry/2020/04/10/205753
こんなシリーズあったなって感じの人もいると思いますが。久々にやります。そういえば最近FFXIIのニコニコ実況を見たんですが、その人1年に1本ペースで投稿してましたのでそれよりはマシかなと。まぁその人の動画めちゃくちゃ面白いんで当時見てた人も1年待つ甲斐もあったんだろうなぁ。
では本編。地図は前話のを参照。
東フランク王であったオットーが皇帝の称号を得た大きな要因としてレヒフェルトの戦いが挙げられる。部下であるロートリンゲン大公コンラート赤毛公がマジャール人を破ったことによりローマ・カトリック世界は守られた。これはカール・マルテルのトゥール=ポワティエ間の戦いに通じるものがある。
だが、これ以上に大きな要因はオットーがイタリア王ベレンガリオ2世を追い出したことだ。ローマ教皇ヨハネス12世はベレンガリオ2世の暴挙に耐えられずオットーに助けを求め、オットーはそれに応え自らがイタリア王となった。これは、カール大帝によるランゴバルド王国併合に通じる。そして翌年にヨハネス12世により戴冠。962年、神聖ローマ帝国成立となる。大事なのはかつてのカール大帝と同じような経緯で戴冠したということ。
つまり、オットーは東フランク王(=ドイツ王)に加えてイタリア王という称号を得て始めて神聖ローマ皇帝になれたというわけ。東フランク王と神聖ローマ皇帝の差はこのイタリア王を兼ねるかどうかという違いがある。そのため、このイタリア王という称号は神聖ローマ皇帝に無くてはならない存在であり、ここに歴代皇帝がイタリア政策に没頭しなければいけない理由があったのだ。
ち・な・み・に、神聖ローマ皇帝がどう成立するかというと、まずドイツ諸侯の間で選挙でドイツ王を決める。ホーエンシュタウフェン朝断絶後の大空位時代を経て1356年の金印勅書で選帝侯が決められたって受験世界史では習うけど、皇帝選挙自体はもっと前からやってたし、なんなら王を選挙で決めるのはゲルマン民族古来のしきたりでもあった。
んでドイツ王が決まってもそれはまだ皇帝ではない。先程言った通り、イタリア王の称号を経て皇帝になれるからだ。だから、ドイツ王はこの後イタリアに向かい教皇から戴冠されなければならない。
このため、神聖ローマ帝国の版図には現在のドイツやスイス、オーストリアなども含めてイタリア北部も一応入っている。でも、イタリア北部の諸侯にしてみればドイツ王を決める選挙に自分が関わるわけでもないし、民族も違うので全く知らない奴が王様だと言いながら自領を通過していくイメージ。しかも税金もこのよく分からん奴に納めないといけない。そら反発しますよ。その例がロンバルディア同盟であったりするわけだ。簡単な話、イタリアの諸侯がまとまってイタリア王国を作っちゃえば良かったのだけれど、当時の北部イタリアは都市国家が無数に乱立して互いにいがみ合っていたのでこう上手くはいかなかった。
ドイツ王達はこの反発してくるイタリア諸侯に対抗すべく、ドイツ諸侯に軍事的であったり経済的な応援を求める。見返りにドイツ諸侯には様々な特権を与えた。これがドイツ諸侯の独立性を強める一因である。さらには聖職叙任権闘争もからんで皇帝権は相対的に衰弱していくわけだ。
続く。
EU4戦記 ザクセン編㉔ ビルング帝国の夢
前回→
第25代ザクセン皇帝フリードリヒ・アウグスト5世の時代。
1871年、ゲーム終了。史実でのドイツ帝国成立の年にこの世界も終わる(バニラみたいにこの後続けてプレイできない)。
史実の1871年
ゲーム内での1871年
属国はボスニア、サガ、ヨシノガリ、ブランデンブルク、カスティーリャ、アラゴン
同盟国はシチリア
↑全部ビルング家
国境線は汚いが王朝でみたらそこそこまとまっている。ビルング帝国による西欧統一まであと少しだった。最後の難関はポーランド帝国。ポーランドはかつて一度ビルング家になったことがあったのだけれど、その時に王位請求しとけばよかったなあ。あと、属国の反乱がかなり痛かったので属国の王朝をビルング家にして解放→王位請求CBで戦争吹っ掛けたら同君下位国になったりするのかな?それだったら全部の属国を同君下位国にしとけばよかった(同君下位国は独立欲求上がりにくい。フランスもこんなに大きくなったのに0%)。
1054年地図→
EU4戦記 ザクセン公編① マンジケルトの戦い - 都紀女加王墓前バス停で待つ。
1150年地図→
EU4戦記 ザクセン編⑥ 帝位再興 - 都紀女加王墓前バス停で待つ。
1250年地図→
EU4戦記 ザクセン編⑧ 無能王 - 都紀女加王墓前バス停で待つ。
1350年地図→
EU4戦記 ザクセン編⑪ 7年戦争 - 都紀女加王墓前バス停で待つ。
1450年地図→
EU4戦記 ザクセン編⑬ 揺れるビルング家 - 都紀女加王墓前バス停で待つ。
1550年地図→
https://tsuki-mecha.hatenablog.com/entry/2020/06/02/191538
1650年地図→
https://tsuki-mecha.hatenablog.com/entry/2020/06/06/102832
1750年地図→
https://tsuki-mecha.hatenablog.com/entry/2020/06/08/095853
1850年地図
EU4戦記 ザクセン編㉓ 諸国民の春
前回→
第25代ザクセン皇帝フリードリヒ・アウグスト5世の時代。
1834年、ザクセン帝国を北ドイツ連邦に格上げ。史実のドイツ関税同盟と同じ年。神聖ローマ帝国ではなくザクセン帝国こそがドイツを作り上げる国家であることを宣言した。
同年
属国のブランデンブルク辺境伯が宗主国北ドイツ連邦に独立戦争を仕掛ける。他にもリトアニア辺境伯、カスティーリャ辺境伯とアフリカ植民地が宗主権を否定しブランデンブルク側で参戦。諸国民の春。
ブランデンブルク辺境伯は第4代ザクセン公(のちに初代ザクセン王)ヨハン・ゲオルグ2世によって1123年に設置され、20年後の1143年からザクセンの属国として歩んできた歴史ある辺境伯。なんと感慨深い。(https://tsuki-mecha.hatenablog.com/entry/2020/05/18/112648)
国民国家建設が騒がれるこの時代にこの辺境伯たちには力を与えすぎてしまった。私が軍隊を動かすのが面倒で属国にやらせていたことに不満が募ったのだろう。この戦争では北ドイツ連邦主席フリードリヒ・アウグスト5世の直轄軍130万を自らの手で指揮しすべての反乱を鎮圧。領土を削減し辺境伯の力を削いだ。
1836年、ウェルツェン条約締結。属国の独立は認められないままに終わったが、独立欲求は依然として高いままだ。
1838年、VSモースバッハ伯
1842年、VSフェレット公国
1845年、久々の2方面作戦。北ドイツ連邦の同盟国シチリア帝国がポーランド帝国とも結んでいるので、ポーランド帝国侵攻の際にシチリア帝国が敵側に参戦する恐れがあった。これに対応するためサルデーニャ王国侵攻にシチリア帝国を釣りだし、その間にポーランド帝国侵攻。
1847年の地図
徐々にドイツ西部も統一しつつある。属国の併合までは間に合わないので、ザクセン王家であるビルング家(辺境伯もすべてビルング家)によるビルング帝国がどれだけ拡大できるかを狙っていく。
1848年
再び辺境伯達が独立戦争を仕掛ける。ブランデンブルク、ボスニア、カスティーリャ、アラゴン、サガ、ヨシノガリの辺境伯が敵側参戦。そのまま1848年革命。
3年後の1851年に再び鎮圧。何度たたいても独立運動をやめない辺境伯達。もうこの時代にこんな風に属国をたくさん束ねているほうがおかしいんだろうけど、ゲームオーバーまであと少し待ってください…。
1857年、VSロンバルディア帝国
1867年、VSリエージュ司教領
1869年地図
EU4戦記 ザクセン編㉒ 夢の終わり
前回→
第23代ザクセン皇帝ヴォルフガング1世の時代。
1738年からの戦争ラッシュはとどまるところを知らない。
1799年、VSモースバッハ伯領
1801年、VSクロアチア公国
1805年、VSロンバルディア帝国
1809年、VSモロッコ王国
1811年、VSフェレット公国
1813年、仮設置したチューリンゲン辺境伯領を併合。戦争に次ぐ戦争で他国との技術力の差が顕在化し、多くの属国の独立欲求が高まっている。
1816年のヨーロッパ勢力図
同年、VSリエージュ司教領
1817年、ヴォルフガング1世死去。クリスティアン・アルブレヒト1世が第24代ザクセン皇帝に即位。
1820年、バニラにはない新たなる時代、「イデオロギーの時代」に突入。ここでvoltaire's nightmareのmodのその名の通り悪夢が襲う。。。
時は国民国家の建設が騒がれる時代。ザクセン帝国内の属国民はザクセン帝国から独立した新たな国家形成に期待を膨らませていた。すべての辺境伯領の独立欲求はマックスの100%に到達し、戦争にも協力せず併合も受け付けなくなった。多くの属国に軍事力を委ねていたザクセン帝国内では大きな動揺が走る。。。
同年にはバレンシア=スルタン朝がカスティーリャ辺境伯の独立支援条約を締結。さらにはアラゴン辺境伯もザクセン帝国内でスパイ活動をしていることが発覚した。
属国がこぞって独立戦争を仕掛けてきたら歯が立たない。ザクセン帝国内の同君連合(こいつらは離反しないみたい)であるザクセン王国、フランス王国、スコットランド王国、トリエステ伯領内で拡張しながら来るべき時に備える必要があった。戦争狂時代はまだ続く。
1821年、VSロンバルディア帝国
1823年、VSフェレット公国
1825年のザクセン帝国地図あと少しだが…
1833年、クリスティアン・アルブレヒト1世死去。フリードリヒ・アウグスト5世が第25代ザクセン皇帝に即位。
EU4戦記 ザクセン編㉑ 戦争狂
前回→
第21代ザクセン皇帝フランツ・クサヴァー3世の時代。
戦後からザクセン帝国は周辺地域に次々に戦争を仕掛ける。残り時間は少ない。
1738年、VSマイセン公率いる神聖ローマ帝国軍
1742年、VSポーランド帝国
1747年、VSバレンシア=スルタン朝
次々に戦争を仕掛け包囲網を組ませない作戦。止まると死ぬ。
1748年、フランツ・クサヴァー3世死去。ヨハン1世が第22代ザクセン皇帝に即位。禁じられた名前(ハプスブルク家)。
1752年の属国図
ケルン、マインツ方面に新たにヨシノガリ辺境伯を設置。バンベルク、フライジング方面にサガ辺境伯を設置。次第にこれらは強大化していき独立性を高めていくこととなる。
1753年、VSオーストリア大公国
1756年、VSモロッコ王国
1759年、VSバレンシア=スルタン朝
1762年、VSロンバルディア帝国
1764年、VSケルン司教領
1768年、VSバレンシア=スルタン朝
この戦争で敵側参戦国トレムセンが滅亡。北アフリカはザクセンの植民地となった。
1769年、VSマイセン公
1771年、VSビザンツ帝国。この戦争でビザンツ帝国は滅亡。1325年の第1次ビザンツ戦争(第13代ザクセン王フリードリヒ・アウグスト2世)から約450年、史実より300年ほど遅い滅亡となった。
1776年、ヨハン1世死去。ヴォルフガング1世が第23代ザクセン皇帝に即位。
1777年、VSクロアチア公国
1781年、気付いたらトリエステ伯領が同君下位国になってました…いらねぇ…
カスティーリャ、アラゴンの両辺境伯を使ってガンガンレコンキスタ中。アラゴン辺境伯の独立欲求がかなり高まっているので一旦併合して新しい辺境伯置いたほうがいいのかな。
1790年、VSマイセン公国。神聖ローマ皇帝として参戦したフリースラント公を破り全土併合。神聖ローマ皇帝位はナッサウ公国に移った。
1793年、チューリンゲン辺境伯を設置。
1796年、独立欲求の高かったウルム司教領を併合。中部ドイツも次第に統一されつつあった。
EU4戦記 ザクセン編⑳ ザクセン帝国
前回→
1690年、マゾフシェ公国に宣戦布告。フランスを継承したことである程度の包囲網には対応できるという自信があった。ここから先拡張をさらに急ぐ。
1695年、ヨハン・ゲオルグ4世死去。ヨハン・ゲオルグ5世が第20代ザクセン王に即位。
1696年、フリースラント公のヘンドリック・カシミル3世が第32代神聖ローマ皇帝に即位。同年、フランス継承により存在意義をなくしたノルマンディー辺境伯領を併合しリヴォニアへ辺境伯領をリトアニア辺境伯領に統合した。
1697年、タイファの一つであるトルトサに宣戦布告。イベリア半島はイスラム国家がまだまだ健在。
この戦争後旧領にアラゴン辺境伯を設置。前回設置したカスティーリャ辺境伯と合わせてレコンキスタの足掛かりとする。
1701年、モロッコ戦争。
1703年、ヨハン・ゲオルグ5世死去。息子はまだ若く、ホーエンツォレルン系シャルクスブルク家のビアンカが摂政を務める。
1707年、ビザンツ戦争
ふと王朝を確認したら同盟国シチリア帝国がビルング家になってた。これは…同君ありそう。
1710年、バレンシア・スルタン朝に宣戦。
同年、フランツ・クサヴァー3世が第21代ザクセン王に即位。
1713年、フランツ・クサヴァー3世は神聖ローマ帝国からの脱退を宣言。ザクセン王国領土は神聖ローマ帝国から離脱し、フランツ・クサヴァー3世はザクセン皇帝に即位。ザクセン王国、フランス王国、スコットランド王国と各辺境伯を統治するザクセン帝国が成立した。
1715年、神聖ローマ皇帝にお礼参り(フリースラント公に宣戦)。
途中ウルム司教領を属国化。
1719年、アルル公国に宣戦。
ブルガンディー地方、中部フランクの名残ともいえる国家。こんなロマンあふれる国と戯れるのは最高だね。
1720年、マイセン公に宣戦。
1725年、第1次ポーランド分割
ポーランド帝国はブランデンブルク、リトアニア、ボスニアの3つの辺境伯とザクセン直轄地域に分割されていく。
1736年
ブレイスガウ公から宣戦布告され第3次大同盟戦争勃発。。。
味方220万:ザクセン帝国、フランス王国、スコットランド王国、リトアニア辺境伯領、ブランデンブルク辺境伯領、ボスニア辺境伯領、カスティーリャ辺境伯領、アラゴン辺境伯領、ウルム司教領、ザクセン領アフリカ、シチリア帝国、サルデーニャ王国
この戦争を長々とやっていてもこちらは拡張できないので適当に戦って降伏。ラウジッツ辺境伯領、カトレンベルク伯領、ダブリン伯領を解放させられる。だが、この後長い休戦期間に入るためこの間にこれ以上の領土を取れば何も問題ない。