都紀女加王墓前バス停で待つ。

長崎生まれ佐賀育ち 中高福岡大阪在住 完全趣味の自己満足ブログ。 @tsukimecha

韓信という男

勝手に好きな歴史上の人物について記憶の中で語ります。間違ってる情報あったらすみません。第一回。

 

今回選んだのは劉邦の天下取りに大きく活躍した「韓信」。

 

麻雀の役満の一つに国士無双というものがありますよね。その語源となった人物。国土双つとして並ぶものなしと言われた男、それが韓信

 

こいつは若い頃どんな感じだったかというと自信過剰のイキリ青年みたいな感じ。家柄良くねぇから金もねぇ。見た目も冴えねぇ。でも俺は賢い、凡人とは違うという意識を持ちながら今日も近所のおばちゃんにご飯を恵んでもらう。ヤンキーに絡まれたら立ち向かわず、股の下をくぐるよう命令されたらその通りにくぐる。「股夫」というあだ名が付いたのはこのことから。周りからは自意識過剰の臆病者のように見られてたとか。そんな韓信がそこら辺のイキリ少年たちと違った部分が一つ。彼は本当に大きな才能を秘めていたこと。

 

この才能に気付いた知恵者は二人。一人は楚の項羽の参謀、范増。そしてもう一人は漢の劉邦の参謀、張良。この二人以外は韓信の才能に気付かず、韓信は何度か主君を変えるが誰も高い役職に付けようとはしなかった。韓信が楚に来た時、范増は韓信を一目見て「こいつは大器。重用するか、さまなくば殺すべき」と項羽に助言している。先見の明のある范増らしい言葉だ。韓信の才能を他に使わせないように殺せとまで言わしめた。しかし項羽韓信を重用せず、韓信項羽から離れまた別の主君を探そうとしていた。そこに目を付けたのが張良。漢の劉邦の元に行けば軍事の全権を担う大将軍にするとまで言った。韓信はその言葉通り劉邦の元へ行き、劉邦張良の助言通り韓信を大将軍に任命した。

 

さて、ここで韓信が大将軍に就任した時の項羽と劉邦の勢力を確認してみる。もともとこの二人は手を組んで秦の暴政に対抗し都咸陽を落とした仲であった。しかし、その後の考え方の違いから二人は決裂。楚の名家の出身の項羽と農民出身の劉邦とでは考え方が合わないのも当然だろう。二人は幾度となく戦い、全てにおいて項羽が圧倒した。劉邦はついに漢中の片田舎にとどまざるを得なくなったのだ。

 

大将軍になった韓信はまず屈強な漢軍を作り上げた。そして、漢中の入り口を守る元秦の将軍章邯を破り中華大陸に一挙に展開。少数で多数を打ち破る戦略の数々で魏、燕など項羽に味方する勢力を次々に屈服させていった。その間項羽は幾度となく劉邦に攻撃を仕掛けるも劉邦は得意の逃げで何度も耐える。劉邦自身、項羽に負けること100度以上とも言われたが、その裏では韓信が着々と劉邦に味方する勢力を拡大していたのだ。韓信の一番の手柄は難攻不落の斉の国を落としたことだろう。斉といえば70以上の城を持ち、戦国の中でも力ある国だった。現に、中華統一を果たした始皇帝が最後に滅ぼしたのが斉国である。斉が漢に味方したことで情勢は大きく変わる。また、ここらへんで劉邦ではなく韓信こそ統一帝国を築くべきという意見もでてくる。さらに韓信は斉王を名乗り、これは主君である劉邦を大きく動揺させた。韓信自身、劉邦に対する反抗心はなかったものの、劉邦韓信をひどく恐れるようになった。

 

劉邦韓信は合流し、垓下の戦いで四面楚歌の中項羽を下すことに成功。100幾度と破れた劉邦に最後の1勝で天下を渡した男、それが韓信であった。韓信は楚王に封じられ、かつてご飯を恵んでくれたおばちゃんには莫大なお金を与え、股をくぐらせたヤンキーには「お前のおかげで我慢を学んだ」と言い役職に付けて恩を返した。しかし、平和な世の中で軍事の天才はもう用無しになっていたのである。

 

劉邦項羽の生前から敵を次々に下していく韓信を心底恐れていた。だが、韓信を失っては自分の勝ちはないと思い、斉王になるのも渋々認めた。しかし今天下を取った劉邦は恐れるものなどない。小さな讒言を聞いた劉邦韓信を淮陰侯という低い役職にまで落とした。韓信の才能を知る者たちは反乱を起こし韓信こそ皇帝になるべきだと言った。韓信はそれに乗じて反乱を計画。無理もないことだろう。劉邦の天下は自分の存在なくしてなり得なかった。それが今やこんな身分にまで落とされては、たまったものではない。軍略で自分に敵うものはいないので、挙兵さえできれば勝ちだった。

 

ところがこの計画は途中でバレ、韓信は捕らえられ、遂には死罪となり幕を閉じる。劉邦のために活躍し劉邦により殺される。これが国士無双韓信であった。