都紀女加王墓前バス停で待つ。

長崎生まれ佐賀育ち 中高福岡大阪在住 完全趣味の自己満足ブログ。 @tsukimecha

荀彧という男

レポート対策のためいつもバイトの月曜なのにシフトを外しました。興味0の4500字レポートを諦めたら時間ができたのでこれを書いています。

 

第5弾は荀彧。後漢末期を生きた人物であり、三国志を彩る人物の一人。その知は王佐の才と称えられた。これは王を佐ける(たすける)才脳という意味。

 

実は荀彧はもともと袁紹に仕えていた。後に魏の礎を築く曹操に仕え、「我が子房」と歓迎された。子房とは前漢建国の功労者である三傑の一人、張良のこと。それだけ荀彧を大事な人材として認識していた。ちなみに三傑の残りは蕭何(https://tsuki-mecha.hatenablog.com/entry/2019/04/25/211516)と韓信https://tsuki-mecha.hatenablog.com/entry/2019/04/18/003448)。曹操の下ではその知能と人脈を存分に活かした。曹操陣営のブレーンといえば荀攸郭嘉、程昱などが挙げられるが、そのほとんどが荀彧によって推挙された者。彼らの活躍無くして曹操の覇はなかった。

 

将軍として兵を率いるシーンはほとんどないが、曹操が留守の間に、呂布と組んで謀反を起こそうとした張邈の真意を見抜き城を死守したことがある。この時死守した3城から曹操は再起して呂布を滅ぼすに至る。

 

曹操にとって一番の転機といえば放浪する後漢ラストエンペラー献帝を庇護したことだろう。これを提案したのも荀彧。献帝を自分の下に置くお陰で曹操は官軍という虎の威を借り、反抗勢力を逆賊として討伐する大義名分を得た。この後曹操の勢力は急速に拡大していく。

 

では荀彧は曹操のためだけに献帝を庇護することを計画したのかと言われると、そうではない。なぜなら、荀彧の仕える主君は曹操であると同時に当時満身創痍であった後漢そのものだと言えるからだ。

 

荀彧は曹操後漢復興のために散らばった勢力をまとめ上げるよう献策した。この目的は表向きでもなんでもなく、本心からだった。呂布討伐の機会を進言したのも、官渡の戦いで最大の敵袁紹に挑む際弱気になった曹操を勇気付け勝利へ導いたのも、袁家滅亡の策を立てたのも全てが後漢のためだった。荀彧は後漢に仕える曹操に仕えていたのであり、後漢の臣であったといえる。

 

一方曹操にとっては後漢復興を旗印に掲げながらも、それは表向きに過ぎなかった。呂布を滅ぼすのも、袁紹を滅ぼすのも、自分が新しい時代を築くためだった。そして彼はそれを周りから許されるほどの天才的頭脳とカリスマ性を備えた、千年に一度の大物であった。領土拡大と曹操の地位が確固たるものになるにつれて、曹操を「魏公」とする声が上がり始める。

 

ふたりの主従関係はここから崩れ始める。公という地位は王の次に位置し、皇帝の下に位置しながらも独立した力を持つ。荀彧は曹操が魏公になるのを諌めた。あくまで後漢の臣下として振舞うことを願う荀彧と魏公になりたい曹操。両者の関係は悪化していく。

 

ある時、荀彧は遠征中の曹操からおみやげに器を贈られる。中身を見るとからっぽ。これを見た荀彧は全てを悟り自殺した。

 

何を悟ったかは下の例がある。

①パターンA

曹操「おみやげどうだった?」

荀彧「からっぽでした」

曹操「は?嘘をつくな俺に恥をかかせたな!」→死罪

パターンB

曹操「おみやげどうだった?」

荀彧「美味しかったです!」

曹操「は?あれは器を贈ったのにお前嘘ついてるな!」→死罪

というシナリオ。

 

単にお前は用済み(からっぽ)だ という曹操からのメッセージ

 

荀彧の死後まもなく、曹操は魏公になる。

 

以上。不遇な死を迎える人ばっかり取り上げてしまうあたりこういう物語が好きなんだろうな。固まったものが一瞬で崩れ去る感じが好きというかなんというか唆る。今回は後漢の忠臣、荀彧でした(諸説あり)。