都紀女加王墓前バス停で待つ。

長崎生まれ佐賀育ち 中高福岡大阪在住 完全趣味の自己満足ブログ。 @tsukimecha

佐賀戦国史⑤ 龍造寺全盛

前回→https://tsuki-mecha.hatenablog.com/entry/2019/11/25/203405

 

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1578年耳川の戦い前の勢力図

 

今回は肥前の熊、†龍造寺隆信†を語る前に九州の諸大名の話を簡単にしておこう。

 

かねてより薩摩の一部を治めていた島津家は、貴久の代で敵対する別島津家や肝付家を破り薩摩を統一。その息子義久の代で領土を大きく拡張していった。

 

日向国には伊東氏がいたが度重なる島津の猛攻に耐えきれず、最後は木崎原の戦いに破れ没落。ついには大名†伊東義祐†が豊後に逃げて伊東家は滅亡した。

 

肥後には北に阿蘇氏、南に相良氏がいた。阿蘇氏はもともと阿蘇神社の宮司という身分であり、周りの戦国大名と張り合うほどの勢力を持ったものではなかった。しかし、名将甲斐宗運の外交力により大友氏と相良氏との同盟を締結させ、一気に一大勢力を築き上げた。

 

南の相良氏は先述の通り阿蘇氏とも結び、また伊東氏とも結んでいた。が、木崎原の戦いで伊東氏が没落した後味方を失い、勢力は衰えつつある。

 

という状況下で起こった1578年耳川の戦い。大友が大敗北を喫したこの戦いは、九州全土を震撼させた。

そもそも、今でこそ島津家の強さは知られているものの当時の九州では大友一強だと考えられていた(と思う)。そんな大友だからこそ各地の国人勢力も従属していたわけだ。

ただ、†大友宗麟†は戦の際には遠方の従属勢力をも駆り出したために反発も大きかった。今回の耳川の戦いでも筑前筑後の将が呼ばれ、多くが討ち死にした。筑後15城筆頭の蒲池鑑盛を覚えているだろうか。幼少の†隆信†を助けて佐賀復帰に貢献した義将である(https://tsuki-mecha.hatenablog.com/entry/2019/10/01/160149)。鑑盛も耳川の戦いで討ち死にし、跡を継いだ蒲池鎮漣は†龍造寺隆信†に臣従。空白となった筑後征伐に協力した。

その後、筑前に勢力を持っていた筑紫氏、原田氏、秋月氏も大友の後ろ盾を失い†龍造寺隆信†に対抗できず降伏。†隆信†はついに筑前、博多を手にし一躍大勢力となる。

 

その後蒲池鎮漣が反旗を翻し柳川城に籠城。柳川城は難攻不落として有名で、なかなか落とせなかった。†隆信†は和議を結ぶために鎮漣を佐賀城に呼び出し、隙を見て鎮漣を暗殺。多大な恩がある鑑盛の息子を騙し討ちにした件は周辺勢力だけでなく家臣からも評判を落とすこととなった。残虐性で有名な†隆信†の人格はここにも見て取れる。何はともあれ、これにて筑後も平定。

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その頃肥後では大友と組んでいた阿蘇氏が島津の次の標的となった。島津はそれに先駆けて南肥後の大名†相良義陽†を下し、降伏した相良義陽を阿蘇氏攻めの先鋒にする。しかし先述したように相良氏と阿蘇氏はもともと同盟関係であり、相良義陽と甲斐宗運は盟友の間柄でもあった。

板挟みになった相良義陽は甲斐宗運率いる阿蘇軍を前にわざと負ける陣を敷き討ち死に。相良義陽の首を見た甲斐宗運は涙した。

その後島津の本軍に次第に押された阿蘇氏は筑後まで来ていた龍造寺氏に協力を要請。これに応じて†龍造寺隆信†は北肥後に進軍し、島津軍は一旦退却。こうして龍造寺の勢力は現在の熊本県にまで及ぶものとなった。これが龍造寺家の全盛。

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1581年 

 

〜次回予告〜

 

上の地図の中に意味深に残された有馬氏。第4話で龍造寺に臣従したはずの有馬氏はいったいどう動こうとするのか。

 

次回、運命の沖田畷