EU4戦記 オーストリア編② ラディスラウス・ポストゥムスの治世
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1481年に41歳でオーストリア大公位と神聖ローマ皇帝位を継いだラディスラウスは宿敵であるフランス王国との戦争に備え軍備を整えていった。しかし、ブルゴーニュ公国継承による国土の急激な拡大は周りの諸侯からの評判を下げ、すぐには戦争ができる状況ではなかった。
そんな中1486年大事件が起こる。オスマン皇帝バヤジット2世がクリム=ハン国、カラマン侯国を引き連れバルカン半島に領土を持っていたヴェネツィアに宣戦布告。そのヴェネツィアはフィレンツェとの同盟を切らされ孤立していたフランスと同盟を組んでおり、フランスもオスマン帝国との戦争に参加させられた。これを好機とみたカスティーリャとオーストリアは連合して翌月フランスに宣戦布告。第二次フランス戦が始まった。
ルテルの戦いにおいて大勝を収めたオーストリア、ボヘミア連合軍は国境を越え一気にフランス領内へ侵入。戦争はこちらの優位に進んだ。
だが戦争中の1489年、神聖ローマ帝国内で事件が起こる。選帝侯の一人であるトリーア大司教が同じく選帝侯であるマインツ大司教によって滅ぼされたのだ。神聖ローマ皇帝は皇帝権限として滅ぼした諸侯に懲罰を与えて滅んだ諸侯を復活させることができる(神聖ローマ帝国諸侯が多いほど帝国権威は増すので、基本的には復活させるのが良い)。だが、マインツ大司教はオーストリアに票を投じてくれている大事な友であり、ここでマインツ大司教との同盟を揺るがせたくなかったので黙認。空いた選帝侯の枠にはこれまた同盟国のバイエルン公を据えた。
第二次対フランス戦争はこちらの優位が続くがなかなか決定打が与えられない。1490年にはこの戦いに乗じてイングランド王国までフランスに宣戦布告。フランスはオスマン、オーストリア、カスティーリャ、イングランドという列強に完全に挟まれる形になった。
1491年、首都パリを攻略。その後和平を結び終戦。オーストリアには4郡の割譲と10年間の賠償金支払いが決まった。その後イングランドとフランスは1495年まで戦争を続け、こちらもイングランドの勝利に終わった。このフランス10年戦争によってヨーロッパの勢力均衡図はまた変わっていくこととなる。
1492年からは再びイタリア政策を開始。フランスの後ろ盾を失ったイタリア諸侯に対抗する力はなく、北イタリアの領土を得た。
迫りくるオスマン帝国に対し、オーストリアはオスマンに共同して対抗できる新たな同盟国を探した。そこで、かつての敵であるポーランド=リトアニア連合王国に目を付けた。オスマンのヴェネツィア出兵はポーランド王国にとっても脅威であり、両者の利害は一致した。1497年、オーストリアのハプスブルク家とポーランドのヤゲローは婚姻を結びここに同盟が成った(外交革命)。
対外政策はうまくいっていたものの国内の状況は芳しくなかった。トリーアを滅ぼしたマインツに対しザクセンを始めとする諸侯は包囲網を組んだ。マインツと同盟を組んでいるオーストリアはどちらに味方することもできず、選帝侯の評も割れ始めていた。
少しでも帝国権威を高めるべくラーフェンスブルクが滅ぼしたバーデン公国を復興させたり、ユトレヒト司教からはヘルレ公国を復活させたりと国内を東奔西走。そして問題はまだまだ続く。
遂にニュルンベルクにおいてプロテスタントが発生。周りの地域が徐々に影響され始め、帝国内の宗教的統一が壊れ始めた。この先の選択が考えどころ。
1504年、第三次対フランス戦争。3年に及ぶ戦争で勝利を収めたが、この間も国内ではオスマン帝国のスパイが発見されるなど、確実に脅威は迫っていた。
1511年の暮れ、大公ラディスラウス・ポストゥムスが71歳で死去。レオポルト8世が大公位を継承。さらに、皇帝選挙で神聖ローマ皇帝位はオーストリアに留まることも決まった。
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