EU4戦記 オーストリア編⑥ ウェストファリア条約
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第5代オーストリア大公にして初代オーストリア王のフェルディナント2世の時代。
1580年のイタリア戦争でミラノ公国とアウクレイア公国、ナポリ王国が滅亡。ミラノ公とナポリ王を継承した。
1582年、フェルディナント2世死去。僅か6年という短い治世であった。息子フランツ1世が跡を継ぎ、第6代オーストリア大公、第2代オーストリア王、第6代神聖ローマ皇帝に就任。皇太子のアルブレヒトは能力値不十分故に廃嫡。あまり使いたくない手だけど、国のためには仕方がない。
1585年、第3回オスマン十字軍
前回の第2回オスマン十字軍の結果ロシアとの同盟を切らせることに成功したためロシアは不参加。こちらは同君同盟国とオスマンに恨みを持つマムルーク朝を誘い出した。アフリカ大陸にあるハフス朝チュニジアは占領が難しいので同盟国頼り。
1590年終戦。エーゲ海沿岸地域を割譲し、さらにはアナトリアに拠点を築くことで次なる戦争の際に海軍を必要としない構えを見せた。
同じく1590年…
前話の1561年から神聖ローマ帝国は宗教戦争中であったが、この年遂にプロテスタント同盟戦争が勃発。ここにカトリック同盟VSプロテスタント同盟の一世一代の直接対決が始まる。
ここで両軍の戦力の確認
〇カトリック同盟軍 総勢40万
オーストリア王国、スペイン王国、ヌエバ・エスパーニャ副王領、ポルトガル王国、カライバス植民地、ニューポルトガル植民地、ポルトガル領ルイジアナ植民地、デンマーク=ノルウェー王国、ヴィンランド植民地、スウェーデン王国、ポーランド=リトアニア王国、ザクセン選帝侯国、プファルツ選帝侯国、バイエルン選帝侯国、アルバ公国、ザクセン=ラウエンブルク公国、リヴォニア騎士団領
〇プロテスタント同盟軍 総勢35万
ブランデンブルク選帝侯国、ロシア帝国、オスマン帝国、イングランド王国、アンスバッハ辺境伯領、オルデンブルク伯領、ニュルンベルク城伯領、バーデン辺境伯領、ブラウンシュヴァイク公国、ヴュルテンベルク公国、ユトレヒト司教国、フェルデン司教国、アーヘン自由都市、ハンブルク自由都市、ラーフェンスブルク自由都市、リューベック自由都市、リエージュ司教国、ヴェネツィア共和国、フェラーラ公国、コルシカ王国
緑がカトリック同盟、赤がプロテスタント同盟。ここまでたくさんの国々と同盟を結び、敵大国の力をできるだけ削いできたのはこの時のため。オスマン帝国との戦争で疲弊したところに宣戦布告してくるブランデンブルク、なかなかに容赦ない。
オーストリア軍はオスマンとの試合直後でバルカン半島に固まっていたので、まずは再びオスマン帝国を攻撃。一進一退の攻防が進むが、ポルトガルが新大陸に派遣していた軍を本土に引き返させ、次第にこちらの優位になった。
1593年、オーストリアは黄金時代に入る。一定の条件を満たすと出現するこの50年の期間は国力が大きく強化される。これで一気にラストスパート。
ロシアとイングランドを脱落させるほどの余裕が無かったため1595年、両者譲歩の上ウェストファリア条約を締結。諸侯の領邦教会制を認め、プロテスタント諸侯でも皇帝就任が可能になった。この戦いでフランツ1世は神聖ローマ皇帝としての地位を揺るぎないものとし、オーストリアの威信は高まった。ここに1561年より34年続いた30年戦争は幕を閉じる。
1598年 第4回オスマン十字軍
とりあえず結果だけ。
バルカン半島のほぼ全域を支配し、オスマン帝国は「瀕死の病人」に。いや、まだそんなに弱くないかも。
次から17世紀。まだまだフランツ1世の時代は続きます。
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