EU4戦記 オーストリア編⑧ 帝国改革
→
・1648年フランツ2世はロシアを攻撃。かつての神聖ローマ帝国諸侯であるリヴォニア騎士団領を奪還し、これを足掛かりに東欧からアジアにかけての道が開けた。
・1653年第7次オスマン戦争。オスマンに力なく、教皇は十字軍の発令をしなくなった。
・1659年第9次イングランド戦争。グレートブリテン島の領土はすべてアルバ公国によって吸収され、イングランド王国はアイルランド島とアフリカ西海岸、新大陸にかすかな領土を持つのみとなった。また、この戦いで敵側参戦国の教皇領を併合し遂にイタリア半島統一。第一話の1476年より183年間続いたイタリア戦争はこれにて終了。教皇領を併合すると併合した国に外交的ペナルティがかかるけど、この時の教皇は同君下位国スペイン出身だったためほとんど問題は起こらなかった。教皇は神聖ローマ帝国内のナッサウに移り、ここにできた新たな教皇領は神聖ローマ諸侯の一つと数えられるようになる。
・1670年、再びロシア遠征。その最中の1671年には属国アルバ公国を統合。1532年の第1次イングランド戦争の講和条約で生まれたこの国はオーストリアの過剰な拡張に対する批判を逸らすいい材料になってくれた。
ロシアからシベリア地域を割譲。これは早く東洋に進出して明や日本との戦争を見据えてのものだった。
・1675年 コモンウェルス戦争
オーストリアとコモンウェルス(ポーランド・リトアニア王国)1497年第2代大公ラディスラウス・ポストゥムスの時代の外交革命より繋がりを維持してきた両者だが、当時の仮想敵国オスマンの脅威は去りオーストリアにとってはロシア地域への拡張の懸念ともなっていた。フランツ2世の母であり前摂政ウルリカ・エレオノーラの外交見直しでヤゲロー朝との繋がりも途絶えていた。
コモンウェルスからはポーランド回廊を割譲し、オーストリア領ロシア地域も本国と陸続きになった。
・1678年第10次イングランド戦争。
・1681年タバリスターン遠征
タバリスターンって国名というよりは地域名かな。地図右に見える赤い領域がティムール朝。緩衝地域となってもらうため全土併合は避けた。
・1684年 スウェーデン戦争
神聖ローマ領土であったリガはスウェーデンによって奪われていた。母ウルリカ・エレオノーラの神聖ローマ再興の意思を継ぐフランツ2世は母の祖国に宣戦布告。スカンジナビア地域に支配を広げた。
神聖ローマ帝国改革を進めるべくここからは異端のプロテスタント諸侯に懲罰戦争を仕掛けていく。オーストリアと同じカトリック教国にすることで皇帝の命令に従いやすくなるからだ。
・1687年 ブランデンブルク戦争
・1689年 ロレーヌ戦争
・1690年 ポメラニア戦争
諸侯に対する戦争は皇帝評判を下げるが、皇帝が変わると一旦リセットされる。フランツ2世はこの時すでに60歳を越え、息子の代での帝国改革を成し遂げるべく動いていた。翌年1691年
フランツ2世死去。息子マクシミリアン1世が第9代オーストリア君主、神聖ローマ皇帝となった。
マクシミリアン1世も政策を受け継ぎ、残ったプロテスタント国家であるスイスに宣戦布告。終戦後の1693年神聖ローマ帝国内に「永久ラント平和令」を発令。これで神聖ローマ諸侯どうしの戦争が禁止され諸侯が滅びたり帝国内が荒廃することがなくなる。
・1694年第3次ロシア戦争
・1695年
マクシミリアン1世がわずか5年で死去。マクシミリアン2世が第10代オーストリア君主、神聖ローマ皇帝に就任。帝国統一は息子に引き継がれた。
続き→https://tsuki-mecha.hatenablog.com/entry/2020/05/02/121122