EU4戦記 ザクセン編② 対索大同盟戦争
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第2代ザクセン公オルドルフ1世の時代。
・1066年 ヴェルぺ城伯戦争。この戦争でヴェルペ城伯と敵同盟国ハウスベルゲ自由都市を併合し、ディープホルツ伯領を属国とした。ディープホルツ伯領の属国化はオルデンブルク地域への拡張に対する諸外国からの批判を逸らすためでもあった。
・1070年 ホルシュタイン公戦争
この戦争の大きな目的はザクセンが所有する公益ノードであるハノーファーノードの下流、ハンブルクを押さえることにあった。敵側には大国スウェーデン王国が参戦したが、この時デンマーク王国との戦争中で大きな援軍は出せないでいた。結果として目標のハンブルクを割譲しシュターデ伯領は全土併合。
ザクセンの過剰拡大は再び周辺国の評判に影響を与える。時の神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世(ヴォルムス公、ザーリアー家)からも敵視されることとなった。
・1073年、第2代ザクセン公オルドルフ1世死去。息子はまだ若く、母のアンネグレートがしばらくの間摂政となった。アンネグレートはマイセン辺境伯から嫁いできたヴァイマル家の人物。
・1074年、オルデンブルク公が主導となり第2次対索大同盟が組まれる。参加国はオルデンブルク公国、ブレーメン自由都市、ブラウンシュヴァイク公国、アルンスベルク伯領、コルヴァイ司教領、エバーシュタイン城伯、ヒルデスハイム司教領、ホーヤ伯領、リッペ伯領、ミンデン司教国、シュピーゲルベルク伯領、シュヴァレンベルク伯領。なんかこうたくさんのかっちょいい名前の諸侯が出てくると楽しいね。
とか言ってたら同年オルデンブルクから懲罰戦争を吹っ掛けられる。
味方兵力5万
ザクセン公国、アンハルト公国、マイセン辺境伯領、メクレンブルク、バース伯領、ディープホルツ伯領、ドーナ伯領(マイセン辺境伯の同君下位)、ブランデンブルク=シュテンダル辺境伯領
VS
第2次対索大同盟兵力6万
ニーダーザクセン地域は戦火に包まれた。強大な後ろ盾であったデンマーク王国は自国の損害を懸念して参戦要求に応じず同盟破棄。完全に不利な状況であった。
1076年のエバーシュタインの戦いに敗れた味方連合軍は一気に総崩れとなり、国内の戦争疲弊も無視できなくなったため1079年に降伏して和平。
この戦争でザクセンはかつて滅ぼしたダンネンベルク伯領、ベーダーケーザー城伯領、ディトマールシェン自由都市、ハウスベルゲ自由都市、シュターデ伯領、ブレーメン市、フェルデン市を復活させ、属国であるディープホルツ伯領を解放することを強いられた。なんとかハノーファーノードを守り切ったため、財政崩壊は免れたが大きな痛手を被る結果となった。これにて第2次対索大同盟解散。
しばらくの間オルデンブルク地域への拡大が困難となったためドイツ北東部の未だレーエン制の敷かれていない地域に目を向ける。ここにはハンブルクノードの終点リューベックがあった。リューベックを持つキールを呼び出すため、その同盟国であったメクレンブルク=シュヴェリーンに宣戦布告。
・1081年、キールを割譲しメクレンブルク=シュヴェリーンを属国化。同年、初代神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世が死去し、ディーター1世(カッツェンエルンボーゲン伯、カッツェンエルンボーゲン家)が第2代神聖ローマ皇帝に即位。ザクセンは皇帝選挙でマイセン辺境伯を支持してました(好感度を得るため)。
同年、第3代ザクセン公にヨハンゲオルグ1世が即位。次回はここから。
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