EU4戦記 ザクセン編⑥ 帝位再興
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第6代ザクセン王フリードリヒ・アウグスト1世の時代
度重なる戦争で国内には厭戦感情が蔓延し、兵士数の補充も効率が下がっていった。フリードリヒ・アウグスト1世は国内安定のため以降10年にわたって他国との戦争を避け国力回復を待った。
1190年、同盟国ユトレヒト司教の参戦要請に応じてホラント伯に宣戦布告。肥前艦隊を差し向け、ゾイデル海海戦でホラント・フィアーネン連合艦隊を撃沈。陸軍の消耗無しにユトレヒト司教に大きな貸しを作ることができた。
1194年
フリードリヒ・アウグスト1世死去。フリードリヒ1世が第7代ザクセン王に即位。
1196年
リトアニア地域を押さえたことでキエフ大公国の分領公国であるポロツク公国とぶつかり、フリードリヒ1世は東方植民を一度終了させる。ルーシ諸国との戦争は長い時間を必要とするため、ドイツ内で勢力を固めてから挑むことにした。
1198年
第2次辺境伯戦争。ボヘミア公国の北ドイツ領を巡った争いに多くの諸侯が参戦。敵にボヘミア公国、マゾフシェ公国、ブレーナ伯領、ムーアマルク辺境伯領、ノイブルク公国、ピッテン司教国。
1201年
第2次辺境伯戦争終戦。ボヘミア公国からブランデンブルク辺境伯領、ポーランド王国に領土が割譲された他、かつてボヘミア公国によって継承統合させられたラウジッツ辺境伯領を再び君主国家として復活。マイセン、ラウジッツ辺境伯といったゲロ辺境伯領の後継たる昔ながらの国家が領土を持っているのもこのmodのいいところ。
1204年。第4回十字軍は起こらずビザンツ帝国も元気なままのこの年にザクセン王国は南征を開始。東方はキエフ大公との関係改善に努め、先の戦争でマゾフシェ公国もしばらくは立ち直れない状況であり侵攻の気配はなさそうだったからだ。南征の先駆けとしてザクセン王国内に孤立して残っていたヒルデスハイム司教領を滅ぼす。この国は1074年の第2次対索大同盟にも加盟していた国である。
しかしその翌年、南征を危惧した諸侯らによって第3次対索大同盟が再び結成されることとなった。
第3次対索大同盟参加国
マインツ大司教領、マクデブルク司教領、チューリンゲン方伯領、ブランケンブルク伯領、コルヴァイ司教領、アイヒスフェルト伯領、ホーンシュタイン修道院、カトレンブルク伯領、マンスフェルト伯領、オルラミュンデ伯領、バイヒリンゲン伯領、ヴェルニゲローデ伯領、ノルトハウゼン修道院、シュヴァレンベルク伯領、ゴスラー修道院、ゲッティンゲン辺境伯領。
この圧倒的な数の諸侯に阻まれ南征は早速頓挫することとなる。ザクセン王国は拡張の方向を再考せざるを得なくなった。
同1205年
第7代神聖ローマ皇帝アメデーオ1世死去。ザクセン王フリードリヒ1世が第8代神聖ローマ皇帝に選出され、52年ぶりにビルング家の元に神聖ローマ皇帝位が戻った。皇帝選挙を総括するマインツ大司教が第3次対索大同盟に所属している状態なのによく選ばれたな、という感じ。
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