EU4戦記 ザクセン編⑦ 南ドイツへの拡張
前回→
第7代ザクセン王フリードリヒ1世の時代。
1207年、フリードリヒ1世は議会制度を導入。ザクセン王国の州の代表者を通じて行われるザクセン王国議会が発足した。
1210年、神聖ローマ皇帝でもあるフリードリヒ1世は帝国権威を少しでも高めるため、デンマーク王国領となっていたディトマールシェンを再び取り戻そうとした。しかし、デンマーク王国とは同盟関係であるため宣戦布告はできない。そこで、デンマーク王国の同盟国であるベーダーケーザー伯領に宣戦布告し、デンマーク王国を敵側につり出した。
ヴェヌー湾の戦いでマクシミリアン・ディーツェ率いるザクセンロイヤル艦隊肥前はハラルド・ヘーフ率いるデンマーク海軍を撃破。バルト海の制海権は完全にザクセン王国が握ることとなった。
この戦いの後、デンマーク王国からディトマールシェンを割譲することに成功し、デンマーク王国からは再度同盟を申請された。これまではザクセン王国がデンマーク王国を後ろ盾としてきたが、この時点で力関係が逆転したことになる。しかし、その同盟のうちでデンマーク王国はあからさまな軍拡を開始し、ザクセン王国への復讐に燃えているのは目に見えて分かった。
1215年には第3次対索大同盟が解散。一度帝国外のデンマーク王国を攻撃したのが他国からの評判を上げたようである。フリードリヒ1世は再び南征を再開。
1216年、カトレンブルク伯戦争。この戦争で再び領土拡張を図るも、諸侯の反発にあい大きな領土拡張は許されなかった。そのため、ドレスデン司教領から1州の飛び地のみ割譲し、ボヘミア方面の橋頭堡を築いた。
ドイツ内の過度な拡大がしばらく不可能と知ったフリードリヒ1世は再びルーシ諸侯の一つであるポロツク公国に標的を見定めたが、ギリシア正教を信仰するこの国家は総本山ビザンツ帝国によって守られていた。ビザンツ帝国には遠く及ばないため、ルーシへの遠征も断念。しばらくはおとなしく国内維持に努めた。
時は流れた(横山三国志)。
1238年、過剰拡大の影響も去ったところでボヘミア公国に宣戦布告。
戦争自体はこちらの優位に進んでいたが、翌年1239年に悲劇は起こる。
王太子フリードリヒ・アウグストが死去し、親戚筋のフリードリヒが王太子となった。そしてこの王太子フリードリヒが…見ての通りとんだバカヤロウ。0/0/2って今まで見た中で最無能かも。でも、60歳になる現国王フリードリヒ1世が新しく子を為せるとは考えにくいので、廃嫡はせずこのままいくことに。。。
1240年
終戦。飛び地にザクセン領南ドイツを築き、バイエルン方面から中央ドイツも臨めるようになった。
続き→https://tsuki-mecha.hatenablog.com/entry/2020/05/23/115917