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第13代ザクセン王フリードリヒ・アウグスト2世の時代。
1424年、7年の歳月をかけて3代目の旗艦が完成。名前は「佐賀」。ネタ切れ感が否めない。
1325年、ビザンツ帝国に宣戦布告。
敵にラシュカ公国とゼータ公国。ザクセン軍はトランシルヴァニア方面から、同盟国軍はクロアチア方面からバルカン半島に進軍した。
ザクセンの宣戦布告に合わせてハンガリー王国もビザンツ帝国に宣戦布告。2つの戦争を同時進行で行わされたビザンツ帝国は劣勢に。このままハンガリー王国が拡大するのも癪なので今回は早めに和平。
ビザンツ帝国からは黒海沿岸を割譲し、次回の戦争では難攻不落の首都コンスタンティノープルを目標とした。
1433年
スコットランド王家が断絶。かつて婚姻を結んでいたことによりザクセン王の同君下位国になることが決定。しかし、それに異を唱えたのがトルトナ公国。これによりスコットランド継承戦争が勃発するも、戦力差は明らかでザクセンは無事スコットランドを継承した。
1436年
前話の通り、ザクセン系ビルング家は断絶し次の後継者はオーストリアのフォルムバッハ家から迎えられていた。しかし、この後継者が死去(暗殺説)。同年に生まれていた遠戚のビルング家の幼児が新たな後継者となり、ビルング家は継続することとなった。
そのわずか2ヵ月後、フリードリヒ・アウグスト2世が死去。アンネグレートが摂政となった。
1438年
ビルング家はザクセン系、ブランデンブルク系、マイセン系、ポーランド系に分かれていた。そしてこの年ポーランド系が断絶しマイセン公の同君下位国となった。これに異を唱えたのがフランス。ここにポーランド継承戦争が勃発する。もしザクセンに摂政ではなく王が即位していたら、きっとポーランド王位はザクセンのもとに転がり込んでいたであろうと考えるととても残念。
ザクセンはアールストの敗戦を糧にして国境付近に強固な要塞を建設していた(マジノ線)。これによりザクセン領ネーデルラントへのフランス軍の深入りを防止し、その間にブルガンディーからマイセン、ポーランド軍が合流する時間を稼ぐことに成功。だが、されど大国。7年に及ぶ攻防の末フランスはマイセンのポーランド継承を容認し、ザクセンもフランスから2郡を獲得した。
1446年、摂政アンネグレートが死去。摂政評議会が置かれ、王の即位まで他国への宣戦布告ができなくなる。
同年、マイセン公からオーストリアへの出兵要請があったが、ザクセンはオーストリアとの同盟を結んでいるためこれを拒否。これに対してマイセン公はザクセンとの同盟を一方的に破棄した。クリスティアン1世はこれに激怒し、マイセン公の同君下位国にされたものの独立を図っているポーランド貴族への支援を始める。
1456年、マイセン公に対してポーランドは独立戦争を展開。ザクセンはポーランドを支援し、ポーランド帝国が再興。だが、ポーランドのビルング家は断絶し、同じビルング家のマイセンとの関係も悪化してしまった。