EU4戦記 ザクセン編⑭ イタリア政策
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1462年、索丁戦争
1261年の第1次索丁戦争から200年。デンマーク王国はザクセン王国によって完全に滅亡した。
1463年、ポーランドの独立を支援して以降国交が断絶していたマイセン公国と再び同盟を締結。マイセンとポーランドも仲直りし、再び3国同盟が成立した。
1464年
スコットランド継承戦争で得た属国ヴィチェンツァ公国を併合。ザクセン領イタリアを建設し、イタリア方面への橋頭堡を築く。
1466年、イタリア戦争開始
同年、第20代神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世死去。同じくゲッティンゲン公のアントン・ウルリヒ1世が第21代神聖ローマ皇帝に即位。
1474年、ボヘミア戦争。神聖ローマ帝国内部にあるボヘミアへの出兵は、他国からの評判を大きく下げるためなかなか行えずにいたが、国境線をきれいにしたいという正当な開戦事由でこの度開戦。
1476年、ポーランドのハンガリー出兵への参戦要求に応じる。ザクセンはクロアチア地域の2郡を獲得し、ザクセン領バルカンを建設。先のザクセン領イタリアと合わせてアドリア海の制海権獲得を狙う。
1482年。地中海に派遣していた艦隊佐賀をネーデルラントに移動させる最中の大西洋中で沈没。。。戦艦佐賀(1424~1482)、散る。
1483年、ザクセン領バルカンの拡大のためラシュカ公国に宣戦布告。
1488年
スコットランド継承戦争でも戦ったトルトナ公国に宣戦布告。すると教皇領をはじめとするイタリア諸侯が敵側について参戦(赤い国)。イタリア方面に最小限の軍しか置いてなかったクリスティアン1世は艦隊佐賀の沈没で海経由で軍隊を輸送できなくなったことを嘆く。
コルティナの戦いで何とか勝利し、味方優位に傾く。教皇領とは白紙和平をし、他の諸侯からは沿岸部を集中的に割譲させた。
1493年、イングランド戦争。
1497年、破門されたイタリア諸侯ファエンツァ公国と戦争。破門された国には無条件で戦争を吹っ掛けられるとか、破門の効果ってすさまじいんだね。
1499年、アントン・ウルリヒ1世死去。ノルドガウ辺境伯のフィリップ1世が第22代神聖ローマ皇帝に即位。
1502年、プロテスタントが発生。
しかも発生地がコンスタンツ公国。コンスタンツ公会議。宗教改革の時代が迫る。ちなみに裏ではポーランドに呼ばれてハンガリーに出兵したものの、フランスが敵側につき敗戦。これだけの大国になったザクセン王国だが、まだまだ最強国家とは程遠い。
1507年、第14代クリスティアン1世死去。後継者は未だ若く、摂政評議会が置かれる。
1508年、フランスへの防御線としてフォレ公国と同盟。
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