EU4戦記 ザクセン編⑱ 破局
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第17代ザクセン王エルンスト1世の時代。
大規模な戦争のあとの国力の回復には長い時間を費やした。各地に散りばめられた飛び地平定のための大量の軍の指揮は難しく、ザクセン王国内に辺境伯を置く機運が高まる。
1614年、アフリカ遠征
敵はザイヤーン朝のトレムセンとイベリア半島のイスラム国家。この頃イベリア半島ではキリスト教国家によるレコンキスタは失敗し大半をモロッコ王国が占めていた。ここと戦うためイベリア半島にも橋頭保を築く。
このmodではアフリカは植民地扱いになるらしく、トレムセンから割譲した地域にザクセン領アフリカ植民地が建設された。
1619年、リヴォニア辺境伯とリトアニア辺境伯を設置。ルーシ諸民族の反乱鎮圧をここに任せた。
同年、マイセン公のバルタサル3世が第27代神聖ローマ皇帝に即位。5代連続でビルング家のマイセン公からの皇帝排出。
同年、ビザンツ戦争。
1625年、エルンスト1世死去。息子はまだ若く、母ギアチンタが摂政を務める。
同年、マイセン公からの参戦要請
なんと敵はポーランド帝国。気づかないうちにマイセン公国とポーランド帝国の仲は最悪になっており、理想としていた3国同盟は破棄されていた。ギアチンタはマイセン公、ポーランド皇帝両方と同盟を結んでいたので、この戦争には不干渉を宣言。するとマイセン公はこちらとの同盟を破棄し、一方的な敵視を始める。この後ポーランド帝国からも参戦要請が来たためこちらに応じて参戦。25年前大同盟戦争でともに戦った国々が2つに割れての戦争となった。
この戦争でザクセンは大きな収穫はなかった。マイセン公国との復縁は難しく、500年以上続いた関係はここで途切れた。マイセン公家も王朝をビルング家(ザクセン王家の親戚)から変更。一時はザクセン王、マイセン公、ポーランド皇帝を排出したビルング家も再びザクセン王家のみとなった。
1627年、アウグスト1世が第18代ザクセン王に即位。
同年、キエフ公国に宣戦布告。キエフ公国はかつての大同盟戦争の敵側盟主国であり因縁の相手。立ち上がれないくらいにボコボコにした。
1631年、マイセン公のアルブレヒト2世が第28代神聖ローマ皇帝に即位。
1632年、第2次アフリカ遠征
1635年、フリースラント公のヘンドリック・カシミル2世が第29代神聖ローマ皇帝に即位。と思ったら3か月後対立公のヴィルヘルム・フレデリク1世が第30代神聖ローマ皇帝に即位。
1638年、ビザンツ戦争。
1643年、ボスニア辺境伯を設置しクロアチア公国に宣戦布告。
バルカン半島も次第に統一されていく。