都紀女加王墓前バス停で待つ。

長崎生まれ佐賀育ち 中高福岡大阪在住 完全趣味の自己満足ブログ。 @tsukimecha

神聖ローマ帝国史 第2講 皇帝権の性質

前回→https://tsuki-mecha.hatenablog.com/entry/2020/04/10/205753

 

こんなシリーズあったなって感じの人もいると思いますが。久々にやります。そういえば最近FFXIIニコニコ実況を見たんですが、その人1年に1本ペースで投稿してましたのでそれよりはマシかなと。まぁその人の動画めちゃくちゃ面白いんで当時見てた人も1年待つ甲斐もあったんだろうなぁ。

 

では本編。地図は前話のを参照。

 

東フランク王であったオットーが皇帝の称号を得た大きな要因としてレヒフェルトの戦いが挙げられる。部下であるロートリンゲン大公コンラート赤毛公がマジャール人を破ったことによりローマ・カトリック世界は守られた。これはカール・マルテルのトゥール=ポワティエ間の戦いに通じるものがある。

だが、これ以上に大きな要因はオットーがイタリア王ベレンガリオ2世を追い出したことだ。ローマ教皇ヨハネス12世はベレンガリオ2世の暴挙に耐えられずオットーに助けを求め、オットーはそれに応え自らがイタリア王となった。これは、カール大帝によるランゴバルド王国併合に通じる。そして翌年にヨハネス12世により戴冠。962年、神聖ローマ帝国成立となる。大事なのはかつてのカール大帝と同じような経緯で戴冠したということ。

 

つまり、オットーは東フランク王(=ドイツ王)に加えてイタリア王という称号を得て始めて神聖ローマ皇帝になれたというわけ。東フランク王と神聖ローマ皇帝の差はこのイタリア王を兼ねるかどうかという違いがある。そのため、このイタリア王という称号は神聖ローマ皇帝に無くてはならない存在であり、ここに歴代皇帝がイタリア政策に没頭しなければいけない理由があったのだ。

 

ち・な・み・に、神聖ローマ皇帝がどう成立するかというと、まずドイツ諸侯の間で選挙でドイツ王を決める。ホーエンシュタウフェン朝断絶後の大空位時代を経て1356年の金印勅書で選帝侯が決められたって受験世界史では習うけど、皇帝選挙自体はもっと前からやってたし、なんなら王を選挙で決めるのはゲルマン民族古来のしきたりでもあった。

んでドイツ王が決まってもそれはまだ皇帝ではない。先程言った通り、イタリア王の称号を経て皇帝になれるからだ。だから、ドイツ王はこの後イタリアに向かい教皇から戴冠されなければならない。

 

このため、神聖ローマ帝国の版図には現在のドイツやスイス、オーストリアなども含めてイタリア北部も一応入っている。でも、イタリア北部の諸侯にしてみればドイツ王を決める選挙に自分が関わるわけでもないし、民族も違うので全く知らない奴が王様だと言いながら自領を通過していくイメージ。しかも税金もこのよく分からん奴に納めないといけない。そら反発しますよ。その例がロンバルディア同盟であったりするわけだ。簡単な話、イタリアの諸侯がまとまってイタリア王国を作っちゃえば良かったのだけれど、当時の北部イタリアは都市国家が無数に乱立して互いにいがみ合っていたのでこう上手くはいかなかった。

 

ドイツ王達はこの反発してくるイタリア諸侯に対抗すべく、ドイツ諸侯に軍事的であったり経済的な応援を求める。見返りにドイツ諸侯には様々な特権を与えた。これがドイツ諸侯の独立性を強める一因である。さらには聖職叙任権闘争もからんで皇帝権は相対的に衰弱していくわけだ。

 

続く。