都紀女加王墓前バス停で待つ。

長崎生まれ佐賀育ち 中高福岡大阪在住 完全趣味の自己満足ブログ。 @tsukimecha

神聖ローマ帝国史 第5講

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神聖ローマ帝国建国時、国内は大きく8つに分かれていた。それは、5つの部族大公(ザクセンバイエルン、シュヴァーベン、ロートリンゲン、フランケン)と古くからあるチューリンゲン王国の後継たるチューリンゲン方伯領、ゲロ1世によるゲロ辺境伯領、ヘルマン・ビルングによるビルンガー辺境伯領だ。このゲロとヘルマン・ビルングはオットー1世の右腕として神聖ローマ帝国の成立に多大な貢献をした。のちにヘルマン・ビルングはザクセン公位を与えられ、ザクセン公家ビルング家の始祖となった。

 

今回はこのザクセン公国とゲロ辺境伯領の簡単な分裂と統合を追っていく。

 

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神聖ローマ帝国史 ザクセン大公図

 

とりあえず樹形図。

 

ゲロ辺境伯領はゲロ1世の死後分裂。大体はマイセン辺境伯領に収束するが、一部ラウジッツ辺境伯領は途中でボヘミア王国領になったり独立したりを繰り返した後ブランデンブルク辺境伯領に組み込まれる。

 

ザクセン公国はヘルマン・ビルングの死後ビルング家による統治が続いていたが、途中でヴェルフェン家(ゲルフ)に取って代わられる。東方植民の先駆けにもなり東側に勢力を拡大。しかしハインリヒ獅子公時代にはヴェンド十字軍でメクレンブルク公領を設置したり、ブラウンシュヴァイクリューネブルクなどの都市を開くなどし強くなりすぎた結果、神聖ローマ皇帝フリードリヒバルバロッサによって公国は解体される。

その後アスカーニエン家との交代で王家は続く。アルブレヒト熊公の時代には新たにブランデンブルク辺境伯領が設置される。後のドイツ帝国の主となるブランデンブルクはここから生まれた。

アルブレヒト熊公の孫アルブレヒト1世の死後、ザクセン公国は2人の息子によってザクセン=ラウエンブルクとザクセン=ヴィッテンベルクに分裂。ザクセン=ヴィッテンベルクはマイセン辺境伯領を獲得し、ザクセン選帝侯となる。なので、ザクセン選帝侯領の大部分はマイセン辺境伯領と一致する。

そのため、ザクセン=ラウエンブルクこそ真のザクセン公の系譜ともいえる。ザクセン=ラウエンブルクはそれを意識してニーダーザクセン(低地ザクセンの意)を名乗るが、かつてハインリヒ獅子公によって創設されたブラウンシュヴァイクリューネブルクが合同してできたブラウンシュヴァイク=リューネブルクにより併合されハノーファー選帝侯領(イングランド王ジョージ1世を輩出)となる。ち・な・み・にニーダーザクセンという呼び名は今もニーダーザクセン州という名前で残っている。

 

とりあえず大まかなザクセン公国、ゲロ辺境伯領の顛末はこんな感じ。今回はチューリンゲン方伯領を絡めてなかったけどまた今度絡めて整理します。チューリンゲンとザクセンは密接な関係だからね。