都紀女加王墓前バス停で待つ。

長崎生まれ佐賀育ち 中高福岡大阪在住 完全趣味の自己満足ブログ。 @tsukimecha

龐会という男

前回→https://tsuki-mecha.hatenablog.com/entry/2020/04/05/193141

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男シリーズ第10弾。今回は中国三国時代の魏の武将である龐会。

 

この武将はそれほど有名では無いけど、この父である龐徳はかなり有名。まずはこちらの説明から。

 

龐徳西涼軍閥馬騰の配下として活躍した。馬騰軍随一の武将と名高い猛将であった。西涼は形式上は後漢王朝(というよりはそれを傀儡としている曹操)に従っていたが、ことあるごとに反抗的な態度を取っていた。

馬騰曹操により暗殺されると、その息子馬超曹操に対して反乱を起こす。龐徳馬超に付き従った。

馬超渭水にて曹操に敗れ漢中に流れる際も同行した。まさに忠義の武将とも言えるだろう。その後、劉備に攻められている益州劉璋から漢中に援軍要請が来たため、馬超が出陣。この時龐徳は病に侵されており同行できなかった。そして馬超はそのまま劉備に降伏してしまう。この件はかなりのターニングポイントだと思う。

 

龐徳は回復した後も馬超の元に馳せ参じようとはせず、漢中の張魯に尽くした。215年、曹操によって漢中が攻められた際も曹操軍を大いに苦しめるが最後は降伏。かつての渭水での戦然り何度となく龐徳に苦しめられた曹操だが、その勇猛さを買って将軍として取り立てた。

 

219年に劉備配下の関羽が魏領内の荊州を侵攻した際にこれを防ぐため援軍として名乗り出るが、龐徳のかつての主である馬超劉備に仕えていることから寝返りを警戒される。これに対して龐徳は棺桶を背負い、決死の覚悟であることを表明して曹操も出陣を許した。

龐徳関羽は幾度となくぶつかり、一騎打ちを行うも決着が付かない。両者とも天下にその名を轟かす武勇の持ち主だと言うことだ。とうとう陸上での決着が付かないことを悟った関羽は配下の水連達人である周倉に任せて水中戦で龐徳を捕らえさせた。

同じく捕らえられた于禁関羽に命乞いをして命だけは助けられた。一方の龐徳関羽によって味方に引き込もうとされるがこれを拒否し、曹操への忠義を貫いた。感動した関羽は自らその首を刎ねた。

曹操に仕えて30年の于禁とわずか4年の龐徳の身の振り方の差は曹操を感じ入らせた。

 

ここに忠義の臣龐徳の話は終わる。では、ここから今回の主人公である息子龐会のお話。

龐会も引き続き魏に仕えたが大きな活躍はない。ただ、263年の蜀討伐戦において鍾会の元で参陣している。同年の蜀滅亡後、彼は父龐徳の仇である関羽の一族を蜀の領内から探し出し皆殺しにした。そのため、関羽の直系の子孫は残っていない。

 

44年の因縁。忠義に生きた父と、復讐に生きた息子。