都紀女加王墓前バス停で待つ。

長崎生まれ佐賀育ち 中高福岡大阪在住 完全趣味の自己満足ブログ。 @tsukimecha

伍子胥という男

勝手に語るシリーズ第三弾。蕎麦屋伍子胥と聞いて「臥薪嘗胆」の漢文を思い出す人もいるでしょうか。本名は伍員、字が子胥。

 

 時は中国春秋時代。強国が残った戦国時代よりもっと前の話。父共々楚に仕えた伍子胥。時の王は平王という無能な王様。つまらぬことで平王に疑いをかけられた伍子胥と父親は、平王から追討を受けます。伍子胥は逃げることを提案しますが父親は代々仕えた楚を離れることはできない、とあえて平王の追討に無抵抗を貫きました。伍子胥は友達の申包胥の助けもあり隣の小国、呉へ逃げることに成功します。その後呉の国で父の処刑を知った伍子胥は父の仇を討ち平王を自らの手で殺すことを決意。そのためにも呉で重宝され軍を動かす権利を得る必要がありました。

 当時の呉は南の越の国と戦争を繰り返し、かなり疲弊していました(呉越同舟)。しかも、王の一族が王位を求めて血で血を洗う争いが何年も続いています。伍子胥は呉の王子の一人、光に仕え、機を待ちます。その後クーデターで伍子胥は光を王とすることに成功。光は呉王闔閭として即位し功績者の伍子胥は兵を動かす権限を得ます。

 闔閭も伍子胥の経緯を知っていたので、自分を王にしてくれた恩返しとして楚侵攻を許可。ただ、当時から強国の楚に小国の呉が簡単に勝てるわけはありません。しかし、この呉の国には伍子胥の他にもう一人の逸材、孫武がいました。孫子の兵法を作ったともされる男、孫武孫武の苛烈な兵練と伍子胥の執念で呉軍は一躍精鋭になり、楚との戦いでは怒涛の勢いで敵軍を殲滅。楚は呉のあまりの勢いに都を遷さざるを得ないほどでした。そして楚の旧都郢において平王の陵墓を暴きます。そう、平王はこの数年前病死していました。伍子胥は自分の手で殺せなかったことを大変後悔します。

 平王の陵墓を暴くと平王の遺体の入った棺を発見。伍子胥はすぐさま地上に引っ張り出して、部下に「鞭打ち300回の刑」を執行するよう言います。部下は驚きながらも伍子胥の言う通り、交代交代で平王の遺体を鞭打ちました(屍に鞭打つの語源)。その後も楚を滅ぼすべく侵攻を続ける呉軍。そこにかつての友人である申包胥が流石にやり過ぎではないかと言う手紙を送ります。伍子胥はその手紙を見ても侵攻を辞めず、危機を感じた申包胥は隣の秦に援軍を求めに向かいました。しかし秦は「これも平王の蒔いた種だ」と割り切り援軍を送ろうとしません。申包胥は秦の宮殿の前で7日間泣いて援軍を求め続け、その熱意に遂に折れた秦は援軍を出し、呉軍は呉に引き返すことに。

 その後は漢文「臥薪嘗胆」にある通りなんで簡単に。闔閭は越王勾践との争いで死去し、闔閭の息子夫差はこの悔しさを忘れないため薪の上で寝ます(臥薪)。数年後伍子胥の策略もあり勾践を捕らえることに成功。伍子胥は勾践を殺すべきだと言うが夫差は勾践の遜った態度に安心し奴隷として生かすことに。もともと伍子胥は夫差の父闔閭即位の最大の功績者であり、夫差にとって頭の上がらない存在である伍子胥はだんだん煙たがられることになりました。自分に忠誠を誓うことを条件に勾践を越に返すことまで許可した夫差。伍子胥はこれを大いに諌めますが夫差は聞きません。その上讒言を信じた夫差はこれは良い機会だと伍子胥に自害を命じます。伍子胥は最期に「私の死後目は城門に掛けるように。越が攻めてくるのを見るためだ。墓の上に木を植えよ。夫差の棺桶のために用意しておく」と言い残しました。これを聞いた夫差は大激怒し伍子胥の死体は川に流されることに。

 はてさて数年後、勾践は長い胆を舐め続け(嘗胆)この悔しさを忘れず、国力を増長させ呉を急襲。呉は滅亡し夫差は捕らえられ自害を命じられます。「伍子胥に合わせる顔がない」と、顔を布で隠して自害しました。

 

父の仇のために奔走し、闔閭を即位させその子供に殺された伍子胥。常々「なぜ夫差は勾践のような男じゃないのか」と嘆いていたとか。春秋戦国時代の英雄が最期まで英雄として天寿を全うする例はかなり少ない。