ヴァイマール帝国建国記③ 王国の拡大
前回→https://tsuki-mecha.hatenablog.com/entry/2020/07/23/000054
第7代リウベルトは父ジークムントの戦争を引き継ぎ、1114年に完全勝利。因縁のリウドルフ3世からザクセン公領も獲得することとなった。
チューリンギア王国は未だ成立したばかりであり、混乱が絶えなかった。特にザクセンの諸侯は度々反乱を起こし、その鎮圧に時間をかけることとなる。
1121年、リウベルトは正式にチューリンギア王として国内諸侯からの承認を得た。このため、リウベルトがチューリンギア王初代として数えられる。
同年、クロアチア国王ウルフォに宣戦布告。リウベルトの母であるクロアチア公ヴェドラナの公爵位を奪おうとしたからである。
1123年、アシャッフェンブルクの戦いでクロアチア軍主力を破り勝利。クロアチア公領獲得。
1126年、教皇マリヌス2世によってアナトリアをイスラム支配から奪還すべく第5回十字軍が結成される。
リウベルトはチューリンギア王国の継承法を末子相続とすることを決定。これで兄弟間による分割に悩まされずに済むようになった。
1130年、リウベルト死去。息子ジークフリートが8代目として跡を継ぐ。
リウベルトがドイツ王クノー2世からザクセン公領を獲得した後、クノー2世の息子ドイツ王ギュンター2世はチューリンギア王国に対して宥和政策を取っていた。ドイツ王家ヌーシャテル朝の祖にあたるヴァイマール朝という親戚筋である上、敵をあまり作りたくなかったからだ。
しかし1135年にドイツ国内で反乱が起き、ギュンター2世は退位させられ代わりにジークハーディンガー朝のマインハルト1世がドイツ王位を奪還。マインハルト1世はチューリンギア王国に対して強硬策に出る。
1136年、マインハルト1世はジークフリートに宣戦布告。未だ8歳と若かったが、亡命してきたギュンター2世の援助とロタリンギア王サンチュの援軍によってなんとか勝利。ギュンター2世は妻の実家であるリトアニアに逃れたのちクーデターによってリトアニア王として即位し、ヌーシャテル朝はリトアニア王家として今後存続していくこととなる。
1144年、南ドイツにフランコニア王領を設置。
1147年、フリジア王家であるビルング家のゾフィーと結婚。ここのビルング家はフリジア=ヴァイマール家の血を引いており、ゾフィーは遠戚にあたる。
1149年、セルビア女王ビゼーラに宣戦布告。クロアチア公領の拡大のため。
1159年、教皇セルギウス4世によって第6回十字軍が結成される。目的はノレグル(ノルウェー)征服のため。
1166年、クロアチア王位をブラニミルより奪還。クロアチア王に即位。
1170年、ハンガリー王ゾルターン3世に宣戦布告。これも勝利しチューリンギア王国はジークフリートの代で大きく拡大していった。
1183年、息子ジークフリート2世のフリジア王位継承権を主張しフリジア王ポッポに宣戦布告。フリードリヒ2世はフリードリヒとフリジア王女ゾフィーの長男である。
1185年、ジークフリート2世がフリジア王に即位。
しかし1190年、ジークフリート2世が不審者。その息子バルドマールがフリジア王を継承。
同年チューリンギア王ジークフリートも死去。フリジア王バルドマールがジークフリートの称号も継承することとなり、一気に大勢力となった。
↑真ん中がチューリンギア王領、その下にフランコニア王領、右下飛び地がクロアチア王領、左上飛び地がフリジア王領。