都紀女加王墓前バス停で待つ。

長崎生まれ佐賀育ち 中高福岡大阪在住 完全趣味の自己満足ブログ。 @tsukimecha

司馬懿という男 下

先に上を読んでね

 

 

諸葛亮の死により魏はいくぶん安堵することになる。だが、大きな敵がいなくなった時その国の団結力は弱まり国内が荒れ始めるものである。時の魏の皇帝曹叡諸葛亮の死後酒に溺れ子供も作らず早逝し、幼い曹一族の曹芳が皇帝となる。まだ政治ができない曹芳の補佐としてあげられたのが司馬懿と曹一族の曹爽であった。

 

司馬懿諸葛亮の死後も国内の反乱鎮圧などで功績を挙げており、名声は高まり諸将の人望も次第に得ていった。そんな司馬懿を曹爽は恐れ、司馬懿を政界から遠ざけようとする。司馬懿はそれに対抗することもなく屋敷に籠り、遂には病気を患う。安心した曹爽は魏の実権を縦にするのだった。

 

しかしこれも司馬懿の罠だった。司馬懿は痴呆のふりをして曹爽からの見舞いの使者を欺き続けたのだ。慎重だった曹爽が都を少し留守にした途端に司馬懿は兵を挙げ、都を占拠し曹爽派の粛清を始める。皇帝曹芳もこの政変を見過ごすことしかできず、これを機に魏の実権は完全に司馬懿のものとなった(正始の政変)。

 

このご司馬懿は本当に病に罹り死んでしまう。子供の司馬師司馬昭に残した遺言は「くれぐれも慎め」であった。曹操に仕える時然り、諸葛亮との対戦然り、曹爽に対しても然り、機を伺い続ける司馬懿らしい言葉だ。

 

そ・の・後司馬懿の後を継いだ司馬師は魏の実権を手中に収めながらも魏の臣下として人生を終えた。その弟司馬昭は魏の皇帝の下で晋王となり魏の皇帝曹髦を暗殺するなど力を振るうが帝位を簒奪まではしなかった。

 

司馬昭は263年に三国の1つ蜀を滅ぼす。その2年後265年に病死し後を継いだのがその息子司馬炎。晋王を継いだ司馬炎は魏皇帝曹奐に禅譲を迫り、晋皇帝として即位し魏は滅びる。これは45年前に曹操の息子曹丕後漢の皇帝献帝から帝位を奪い魏を建国したのと全く同じ形であった。魏は自らが行った禅譲によって滅びたのである。

 

曹操曹丕が行った魏建国の流れと司馬懿司馬師司馬昭司馬炎が行った晋建国の流れはとても似ている。そして司馬懿曹操曹丕の行った魏建国の流れを間近で見ていた。これを見た上で自分の子の代で晋の建国を焦り早まらせないようにするべく残した言葉が「慎め」だったのかもしれない。面白いね、三国志