都紀女加王墓前バス停で待つ。

長崎生まれ佐賀育ち 中高福岡大阪在住 完全趣味の自己満足ブログ。 @tsukimecha

佐賀戦国史⑦ 九州統一

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前回→https://tsuki-mecha.hatenablog.com/entry/2020/01/12/224302

 

大名†龍造寺隆信†自身が討ち死にした沖田畷の戦い。佐賀に戻った鍋島直茂は領内の混乱を抑えるべく動き出すが、島津領と接していた肥後や筑後の国人勢力は一斉に島津に付き、筑前博多周辺も再び大友の支配下に入る。

島津義久†は龍造寺隆信の首を鍋島直茂に送りつけるが、直茂は受け取りを拒否。これは島津に臣従しないという強い意志を†義久†に感じさせ、佐賀侵攻を一旦留まらせることとなった。

鍋島直茂龍造寺隆信の息子†政家†を大名に立てて再興を目指すが、島津再侵攻の流言を信じた†政家†が祖母である慶誾尼らと相談して島津に臣従することに決めた。こうして、一旦肥前は島津の支配下に入ることとなる。

 

1586年、中央を完全に支配下に入れた†豊臣秀吉†は全国に私戦禁止令を出した。その頃から鍋島直茂は†龍造寺政家†代理として秀吉と連絡を取っており、九州征伐を促す。そしてこの頃から、肥前国における影響力が大名龍造寺家から家老鍋島家に移ってきていることが中央でも認知されることとなった。

 

私戦禁止令後も戦を辞めない島津軍に対して1587年に†豊臣秀吉†が九州征伐軍を起こした。鍋島直茂は臣従していた†島津義久†と手切れし†豊臣秀吉†に協力。島津攻めの先鋒を務め功を挙げた。これにより†龍造寺政家†は肥前国を安堵されると共に†秀吉†から直茂が政治を担うように命じられる。これ、大きな転換期。

 

島津義久†は剃髪して降伏しここに九州三国時代は幕を下ろす。九州統一を成したのは三国のどこでもなかった。ここまで北部九州の勢力図は目まぐるしく変わった。初期は周防国守護大名大内氏の影響が大きかった。田手畷の戦いで復興した少弐氏も再び征服され、大友氏も大内氏に歯が立たなかった。その大内氏は家老陶晴賢の謀叛により倒れ、北部九州も陶氏の支配下に入るが厳島の戦いにおいて毛利氏がこれを討伐。北部九州においては門司城の戦いなどを経て大友氏が毛利氏を退け、大友氏一強時代が始まる。大内氏衰退に合わせて復興した主家少弐氏を龍造寺氏が乗っ取り、今山の戦いで大友軍を退ける。大友氏は耳川の戦いで南で強大となった島津氏に敗れ衰退。これに合わせて龍造寺氏が北部九州を奪い取ったものの沖田畷に散る。そして島津氏の九州全統一が目前となった時に豊臣秀吉の大軍が到着。全てが秀吉の勢力下に入った。

 

〜次回予告〜

不明〜