佐賀戦国史④ 九州三国鼎立
前回→https://tsuki-mecha.hatenablog.com/entry/2019/11/13/220042
(大名の名前には家臣と区別するため††付けるようにしてるけど逆に見辛いという意見もありました。でも、同姓の人が出てきたとき混乱しないように続けます。)
戦国時代の吉野ヶ里。
前回は世紀の決戦、今山の戦い後の龍造寺隆信の動きを追ったが、今回は他の地方大名の動きを見ていく。肥前には龍造寺隆信しかいなかったわけではない。
今山の戦い頃には肥前国東部、現在の佐賀県をほぼ手中にしていた龍造寺隆信だったが、佐賀県の西部で今の武雄あたりには後藤氏、肥前国西部で現在の長崎県には大村氏、有馬氏、松浦氏の勢力が残っていた。
今山の戦い頃の肥前国勢力図(ガバガバ)
この4氏は龍造寺隆信に半ば強引に従属を強いられながらも、今山の戦いでは大友方に味方するなど度々反抗していた。しかし、前話の通り今山の戦いで大友が大敗し、大友が肥前に侵攻しなくなると彼らは大きな後ろ盾を失って没落していく。
後藤氏当主、†後藤貴明†は今山の戦い前には一度龍造寺に屈していた。しかし幾度となく反抗し、再び独立体制を築いていた。東の龍造寺を諦め西に目を向けたときぶつかったのが†大村純忠†(後藤貴明の兄)である。
↑実は後で出てくる有馬氏出身。純忠は大村氏の養子になり、弟貴明は後藤氏の養子になった。
†大村純忠†は長崎を開港したキリシタン大名として有名で、長崎県大村市(私の生まれた地)を本拠地に長崎沿岸を押さえていた。†後藤貴明†は†大村純忠†攻めのため、松浦半島の†松浦隆信†に援軍を求める。
†松浦隆信†は大内、大友と組みながら長きにわたって松浦半島を治め、子供の†松浦鎮信†に家督を譲ってもなお力を持ち続けた。分裂していた松浦党をまとめ上げた実力者でもあった。しかし、後藤松浦連合軍は大村軍がわずか80名で籠城する三城を落とせず退却。その後†後藤貴明†は多久、武雄北方において龍造寺軍に敗れ、1577年頃には龍造寺に完全従属。ほぼ同時期に松浦家も従属を迫られた。
翌年の1578年、大村の戦いで†大村純忠†は敗れ、こちらも龍造寺に屈服。有馬氏も有力家臣西郷氏の寝返りもあり†有馬晴信†の時代に龍造寺に従属した。
肥前国全域をほぼ手中にした†龍造寺隆信†。これをもって九州三国時代の幕開けとする。最強は筑前、筑後、豊前、豊後を治める大友。次に薩摩、大隅、と日向、肥後の一部を治める島津。次に龍造寺。
しかし同年、九州南部で大事件が起こる。日向国耳川において†大友宗麟†が薩摩の雄、†島津義久†に大敗。多くの家臣を失い、大友家の衰退は決定的なものになった。
島津義久。優秀。
さらに、この耳川の戦いでは筑後15城を始めとする各地の将にも参戦を強制していた。その結果、筑後地区、筑前地区の将が討たれたため現地の大友勢力は次第に消えていった。隆信がそれを見過ごすはずはなかった。
〜次回予告〜
大友勢力を駆逐し遂には筑前、博多をも手中に収めた龍造寺隆信。肥後にも手を伸ばした結果大友を散々に破った島津とも接触。一触即発の危機。
次回、龍造寺全盛