佐賀戦国史 第3話 今山の大勝利
前話→https://tsuki-mecha.hatenablog.com/entry/2019/10/01/160149
大友の大軍の侵攻で佐嘉城内は混乱を極め、降伏論が飛び交う。大友軍は佐嘉城の北今山に陣を張り、前祝いの酒盛りをしていた。その報を聞いた鍋島直茂は夜襲を提案。しかし、その意見にも否定的であったほど城内は弱気だった。後に冷酷さから「肥前の熊」と恐れられた†隆信†もこの時は降伏を考えていたとか。
今山から見た佐嘉城(真ん中)。奥はすぐ大友領内
こんな弱気になっている武将達に喝を入れた人物がいた。その名を慶誾尼(けいぎんに)。†龍造寺隆信†の生母である。当時60を超えた慶誾尼は薙刀を振りかざし龍造寺軍を叱咤激励。遂には直茂の夜襲案を採り、10分の1にも満たない軍で今山を襲撃。大友軍は酒で酔っていた上に暗くて周りも見えず同士討ちを始める。直茂は重ねて「大友軍が寝返った」と虚報を送り同士討ちはさらに激化。そこを龍造寺四天王の一人、成松信勝が駆け迫り、本陣にいた大友宗麟の弟である大友親貞を討ち取った。
これが1570年の今山の戦いである。まさに西の桶狭間とも言うべき名合戦。ち・な・み・に†隆信†を激励した母慶誾尼は鍋島直茂の力量を見込んで直茂の父と再婚している。これによって†隆信†と直茂は義兄弟になって、両者の結束を高めた。龍造寺家のために奔走した、まさに賢母。
鍋島直茂 ステ優秀
この後隆信は大友宗麟に臣従する形で和議を結ぶ。大友軍は撤退し、†隆信†は寝返って大友に付いた肥前国の勢力を再び駆逐していく。西は今の長崎県を治めていた大村純忠、有馬晴純らと戦い優勢に進めていた。肥前国ならず筑後国にも手を飛ばした†隆信†は筑後15城と呼ばれる勢力とも争いを始めた。筑後15城の筆頭は柳川城であり、柳川城主は以前幼き†隆信†を補佐し龍造寺家復興に協力した蒲池鑑盛である(前話参照)。また、15城の中の一つに西牟田城があり、当時の城主は西牟田鎮豊(私の遠戚)であった。
こうした争いを続けながらも大きな領土拡張ができずにいた。その理由は今山の戦い後龍造寺家は大友家の臣従下であったため、時折大友からの圧力がかかったからだ。
〜次回予告〜
九州南部の雄、島津の台頭により大友は衰退を始める。これを機に完全独立を果たした龍造寺。九州の勢力図は大きく変わろうとしていた。
次回 九州三国鼎立