EU4戦記 ザクセン編⑪ 7年戦争
前回→
第11代ザクセン王フランツ・クサヴァー1世の時代
1351年、フランドル戦争。フランドル公国は神聖ローマ諸侯でもフランスのレーエンでもないので、あまり周辺国を刺激せずに拡大することができる。
しかし1355年、第4回対索大同盟が結成される。今回はフランス帝国も参加し、無視できない状況となった。
1357年、マイセン公国からの参戦要求が届く。敵はクロアチア公国とフランス帝国。正直大国フランスを敵に回したくなかったが、ザクセン王家と同じビルング家の公家を持つマイセン公国はいずれ同君連合になる可能性もあるので、交友関係を何としても維持するため参戦。7年戦争開始。
戦線は大きく2つに分かれた。一つはクロアチア公国内のクロアチア戦線。もう一つはザクセンとフランスの国境にあたるネーデルラント戦線。大陸のザクセン軍は対デンマーク軍、対バイエルン軍も含めて全てがネーデルラント戦線に集中した。
1357年、フランス軍本隊10万5千とザクセン軍本隊10万がアールストで激突。フランス皇帝フィリップ2世自身が指揮するフランス軍の士気は高く、このアールストの戦いでザクセン軍は敗北しブレダまで撤退。戦線はザクセン領ネーデルラント中腹まで押し上げられた。
この後対アイルランド用にザクセン領アイルランドに残していた2万の軍勢もネーデルラントに結集させ戦線は膠着。だが1359年になってフランス軍は後退を始めた。クロアチア戦線はマイセン軍とハンガリー軍によってかなり押しており、フランス軍はクロアチア軍の救援に行かなければならなくなったのである。ザクセン軍は一気にザクセン領ネーデルラントを解放し、フランス領内になだれ込んだ。
1361年
フランス首都パリ陥落。フランスの国民感情は一気に終戦へと向かっていく。
トロアの戦いでザクセン軍はフィリップ2世率いるフランス軍に勝利し、フランス帝国はこの戦争から脱落。多大な賠償金をザクセンとマイセン両国に払うこととなった。
このフランスの敗北は第4回対索大同盟にも影響を与え、遂には解散することとなる。
1364年、7年戦争終了。ザクセンがフランスに勝ったという事実は今後の歴史を大きく揺るがす。
同年、ポーランド王家ピアスト朝が断絶しザクセンとの婚姻のおかげでビルング家の地を引く者が後継者となった。ポーランド王国も同君下位国にできる可能性が出てきた。
1367年第5次索丁戦争。どうということもなく(蒼天航路)
1370年、ポーランド王国からの参戦要求に応じてルーシ諸侯と戦争開始。
この戦いは軍質の差もありあっけなく勝利に終わった。ルーシ諸侯への警戒心は下がり、ザクセンの東方遠征への意欲もわく。
翌1371年、第15代神聖ローマ皇帝アルブレヒト2世死去。オーストリア大公フェルディナント3世(この代からオーストリア大公国に格上げ)が第16代神聖ローマ皇帝に即位。
次回→https://tsuki-mecha.hatenablog.com/entry/2020/05/27/124924