EU4戦記 ザクセン編⑩ 黒死病
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第10代ザクセン王フリードリヒ・クリスチャン1世の時代。
1324年、ボヘミア公国、マゾフシェ公国、ノイブルク公国と戦争。
1327年、ユトレヒト司教からのリエージュ参戦要求を拒否。お互いの南下政策の衝突を避けるためであった。その後ユトレヒト司教はザクセンとの同盟を破棄。フリードリヒ・クリスチャン1世は新たにスコットランド王国と婚姻、同盟を結び、イングランド征服に備えた。
同年、イングランド王国、ウェールズ公国、フリースラント伯領、ウェックスフォード共和国と戦争。
ザクセンコンクエストはさらに進んでゆく。裏ではユトレヒト司教がリエージュとケルンの連合軍に敗れ、領土を削られていた。
1331年第12代神聖ローマ皇帝カシミル1世死去。同じくホーエンツォレルン公のニコラウス1世が第13代神聖ローマ皇帝に即位。ホーエンツォレルン公はこれで3代連続の皇帝選出となる。
1335年第4次索丁戦争
シェラン島全域とスカンジナビア半島の一部地域を併合。かつて共に滅ぼしたスウェーデン王国の領土に迫っている。
1339年第13代神聖ローマ皇帝ニコラウス1世死去。オーストリア公マクシミリアン2世が第14代神聖ローマ皇帝に即位。史実でもこの頃からオーストリア・ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝が連続してくるし、なんだかんだそういう歴史に帰結している。
1341年
第10代ザクセン王フリードリヒ・クリスチャン1世死去。フランツ・クサヴァー1世が第11代ザクセン王に即位。
1343年第2次イングランド戦争。子の戦いでウェールズ公国と国境を接するようになり、新たに拡大の方向を獲得した。
1345年
通常版では見られぬ国難である黒死病が発生。これは自国が所持している領土、港の数で被害が決まるらしい。ザクセン王国は今や広大な版図を築いており、推定される被害は甚大であった。
1347年、ウェールズ公国、ウェックスフォード共和国に宣戦布告。
同年
黒死病蔓延。予備兵1万人以上と多数の市民が亡くなった。翌1348年にはオーストリア公の第14代神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世が黒死病で死去。同じくオーストリア公のアルブレヒト2世が第15代神聖ローマ皇帝に即位。
ザクセン領イングランドはアイリッシュ海に面するまで拡大し、さらにウェックスフォード共和国から割譲した領土にザクセン領アイルランド建設。今後の拡張はデンマーク、イングランド、アイルランド方面に決定した。
1348年~1350年は国内の黒死病との戦いに奔走することとなる。
ザクセン王フランツ・クサヴァー自身も黒死病に感染したり(奇跡的に回復)、
ヨーロッパ共通の国難に向かって他国との協力体制も敷かれた。そんな中、イタリアのアクイレイアで完成したpublic healthの制度は黒死病に対して有効で、次第にザクセン王国内にも浸透しつつあった。
1350年
新たな制度による衛生面の向上は黒死病の感染を徐々に減らすことに成功し、ついに黒死病の終了を宣言した。これで、3年にわたる国難は多大な犠牲者を出しながらも終わりを迎える。
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