私の幼馴染
長崎の諫早で生まれ、すぐに市内に引っ越し。私はそこで一人の男の子とよく一緒に遊んでいた。坂道が多く角が多い住宅街を走り回ってかくれんぼしたり、階段を早く上り下りするだけの遊びが私の毎日の楽しみだった。
その子と私は親同士も仲が良かった、というかもともとはそこの繋がりだった。宮崎から出てきた母親はなかなか周りに馴染めず、そこのお母さんとだけ波長があったそうだ。
家族で一緒にお花見に行ったことも覚えてるし、喧嘩して叩き合ったときはお互い母親に連れられて謝りに行った。私の人生の中で唯一「幼馴染」と呼べる存在だった。
その後私は佐賀に引っ越し小学校に入ったわけだが、一度だけ家族で会ったことがある。小3くらいだったろうか。幼少期の4年の期間は男の子の容姿を大きく変える。お互いの変化に驚き合った。家族ぐるみで会ったためなかなか踏み込んだ話もできず小学校の話、地域の話などとりとめもないことを話して別れた。これが最後の会話だった。
中高と年を経るにつれてその子のことは忘れたことはなかったが、会う用事も特に無くお互い成人を迎えた。私とその子は連絡先も知らなかったが親同士は知ってたようで、毎年年賀状も交換していたという。今年になって急にその子の親からの年賀状を見せられ、以下のように書いてあった。
「あけましておめでと〜 〇〇(妹の名前)ちゃんももう受験かな? 私も〇〇(男の子の名前)と闘病生活頑張ってます」
なんかの病気のようだった。心配はしたが、別に会おうとか励まそうとかいう気持ちには不思議とならなかった。別に喧嘩したわけでもないのに、疎遠にさせる時間の流れは残酷だ。あんなに仲良く遊んで、仲良く話して、仲良くお別れしたのに。今こんな感情になってももう遅い。昨日亡くなったと母親から連絡があったそうだ。これが私の日常に与える影響はないのに大きな喪失感だけがそこにある。あの子は私のことを覚えていたのかなぁ。私が会いに行ってたら元気を与えれたのかなぁ。また一人知り合いが居なくなってしまったがそんな事よりもそんな子いねー!!全部嘘だ!この野郎!!そもそも私長崎に3歳までしか居ないから記憶なんて何も残ってねぇ!!!あと諫早じゃなくて大村生まれだっつっても誰も分からねぇ!!嘘は午前中までで嘘ついた内容は今年は起きない??そんなん知るか!なら私の知り合いは今年一年誰も死なせないからな!!!
元ネタはマキシマムザホルモンの「アバラ・ボブ」曲解説より。誰が分かるんだ。知ってた人居たら教えて。結婚したい。
淫習新歓三国神
そういえばこのブログで私の趣味の一つでおる三国志に全く触れてない気がしたので触れておこう。
まぁまず三国志にどう触れるかって話なんだけどどう触れるべきなんでしょうね。ストーリーの大筋は調べれば出てくるしそんなん説明しても面白くないし。
ただ三国志って一言に言ってどういうものか知らない人は多いかなーと思うのでそこらへんから。
時代は2世紀後半〜280年の後漢、三国時代、そして晋による統一まで。実際にあった歴史を書いたのが正史と呼ばれるもので(陳寿作)、今物語として流通してるものが三国志演義(羅貫中作)。まぁ色々と違いはあるんだけどこっちはこうであっちはこうとか言ってても仕方ないし、普通にストーリーとして面白い三国志演義の方メインで話そう。
三国志の何が面白いってやっぱ一騎打ちかな。名だたる武将同士の一騎打ちとか興奮するし、「こいつここで死ぬん!??」みたいな(例:夏侯淵)。一騎打ちで勝つとほぼその戦い勝ちみたいなところある。まぁ指揮系統崩して士気を下げるのは効果的ではあるだろうけど。でももしそうだとしたら一騎打ちで三国志最強を誇る呂布の軍が天下取ってたはずなんだよね。部下にも普通に強い張遼がいたり高順がいたり揃いに揃ってるし。張遼といえば合肥の戦いで少数で数百倍の敵を奇襲にて打ち破り、「遼来来」(張遼が来ると泣く子も黙る)とあだ名された。高順といえば攻めた敵陣を必ず陥とすことから「陥陣営」とも呼ばれた。魏続に宗憲に曹性に侯成に…八建将筆頭に色々いるのに、やっぱり曹操には勝てなかった。
ここで出てくるのが計略というワイルドカード。結局はどんな武力をもってしても知力には勝てない。三国志をモチーフとした漫画「蒼天航路」において、呂布最期の場面で曹操が「これからは知力の時代。お前は過去の存在にすぎない」的なセリフを吐いていた記憶が…ある(割と曖昧)。曹操軍には荀彧に荀攸に郭嘉に程昱にたくさんの智者がいた。武一強の戦いから計略重視の戦いに移行していく混乱期と、三国時代を言い換えることもできる。初期の黄巾の乱、シ水関、虎牢関の戦いと末期の五丈原、剣閣、太康の役の戦い方は全然違う。
この100年という間に人も国も社会規範もあらゆるものが変わっていった。いくらフィジカルの強い南蛮軍でも文明の利器には勝てないし、いくら戦車に慣れた西羌でも過去の武器がいつまでも通用するわけではない。そういう時代の流れを感じる楽しみもこの三国志にはある。
うたた寝
実家の和室で寝ていました。
私の実家の隣には祖母の家があるんですが、祖母はよくうちに来る時玄関ではなくこの和室の窓をコンコンって叩いて作ったおでんとかを持ってきてくれるんですね。
今回もコンコンって音がして起きたら祖母がいまして、「〇〇っていう所を見に行きたか」と言いました。私たち家族と家にいた親戚の合計7人でそこまで歩いて行くことになりました。
途中若者が路上で殴り合いの喧嘩してたり警察が叫びながら走って追いかけてたりでなかなか荒れていて私や何人かは「やっぱり帰ろう」と言いましたが祖母だけは「いや、行かんば」と行って聞きません。
道も汚くなってきて、私達は「もうよかやん」と言いましたが「なんば言うとっとね。 はよ行くよ」と祖母はだんだんと怒り気味になりました。
私達は祖母が取り憑かれたようにその場に執着するのを不思議に思いました。そして、僕の前を歩いていた父親が一言「ばあちゃんの前になんかおる」と言いました。見ると、祖母のすぐ前に張り付くように頭部が赤く燃えているような死装束の人間が一緒に進んでいました。祖母には見えていないのかは分かりません。祖母より後ろの4人は私含め怖くなって叫びながら逃げました。
すると祖母は振り向かずその死装束だけがこちらを振り返り「う……あ……あぁ……」のような呻き声を上げて追いかけてきました。
祖母はいなくなっていました。私は死装束から走って逃げ、住宅街のロータリーまで逃げて一息つきました。
しばらくして死装束が私を見つけてやってきました。火葬場で燃やされる途中の死人のような出で立ちになっていました(見たことはありませんが)。もう捕まるというところでしたが、私は既にこれが夢であることに気がついていたので、ふっと意識を天に放って目を覚ましました。
祖母は6年前に亡くなりました。
という投稿をした後、やっと本当に目が覚めて今これを投稿しています。
九州新幹線8周年記念
2011年3月12日。東日本大震災の混乱止まぬ中九州新幹線は全線開通。九州新幹線開通から早8年が経過した。
全線開通した日は上記の通りだけど部分開通は2004年とまぁそこそこ古い。開業した駅は新八代、新水俣、出水、川内、鹿児島中央。さて、この5つの駅名を間違いなく全て正しく読める九州外部民はどれほどいただろうか。この部分開業より随分前にJR九州は九州新幹線の名前を公募した。しかも選ばれた名前を応募した人の中から数名には特典付き。当時8歳の私は考えて考えて「はやと」という名前を応募した。鹿児島から連想した薩摩隼人のはやとであり、またスピード感もありかっこいい。結果なんとこの「はやと」という名前が一番投票数が多かった。しかし、JR九州は1位ではない「つばめ」という名称を選んだ。以下、Wikipediaより引用
九州新幹線の部分開業の際、「つばめ」の名称は公募により決定し、得票数では第1位が「はやと」で「つばめ」は第5位であった[1][2]が、「はやと」は採用されなかった。なお、「はやと」の名前は九州新幹線開業と同時に設定された肥薩線吉松駅発着の特急「はやとの風」に用いられた。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/つばめ_(JR九州)
当時の私は結局つばめにしたかったんやないんか!!と思った。まぁ今思うとつばめで良かったね。長きにわたって博多〜西鹿児島を結び、ビュッフェカーやつばめレディで有名になりJR九州の顔にもなっていた787系つばめ。こいつの名を無くすのは良くないか。あと「はやと」だと東北新幹線の「はやて」と混乱しちゃいそうだし(かつての新潟新幹線あさひ号の例もある)。んなわけで新幹線つばめが新八代〜鹿児島中央間で運転開始して博多〜新八代間の未完成区間は「リレーつばめ」が補うことになった。
JR九州が凄いのはこのリレー方式に対する本気の入れよう。まず、言わずもがなリレーつばめとつばめは新八代で折り返すのだが、お互いに行先標にはリレー完遂後の行き先しか表示しない。博多からのリレーつばめは実質新八代行きなのに行き先は「鹿児島中央」となっているし、鹿児島中央からのつばめも実質新八代行きなのに「博多」となっている。ちなみに同じく博多発の特急ソニックは大分駅で特急にちりんと接続する場合でも行き先は大分だし、電光掲示板も大分(宮崎空港)となっていた…はず。リレーつばめとつばめは単なる接続じゃないってこと。
さらに、このリレー接続をスムーズに行うため新八代駅に連絡線、さらに専用ホームまで配置する優しさ。連絡線に至ってはわざわざ地上在来線から新幹線高架ホームに向かうわけだからかなりコストかけてんなーと思う。でも、そのおかげで新八代での同一ホーム対面乗り換えを実現させ、3分という短い時間でのリレー接続を可能にした。
私も何度かリレーつばめとつばめを乗り継ぎ鹿児島へ行ったことがあるが、新八代を降りた瞬間目の前で新幹線つばめが静かに待っているのを見る度になかなかにテンションが上がった。中学1年の頃学校行事で鹿児島へ行ったが、その時もこのルートを使った。
中学へは電車で通学しており、全線開通に向けて工事が終わっていくのを見るのが楽しみだった。開業後長崎本線列車は肥前麓駅の次に新鳥栖駅に停まるようになり、「新しい時代が始まったな」と思った。現在佐賀県唯一の新幹線駅であるこの駅は今なお私が帰省の度にお世話になっている駅である。
新水俣…しんみなまた
出水…いずみ
川内…せんだい
鹿児島中央…かごしまちゅうおう
EU4 オーストリアハプスブルク家の野望
新シリーズやってるんで是非。→
久々にEU4のプレイ録。今回はオーストリア🇦🇹で始めました。
↑ゲーム終了時の王朝図。ハプスブルク家の天下。
さて、オーストリアといえば15世紀以降神聖ローマ皇帝をバンバン輩出した領邦国家。オーストリア大公国。ルドルフから続く名門ハプスブルク家。ゲームでも神聖ローマ皇帝兼任して最終的に神聖ローマ帝国復興を目指してプレイすることに。
まずは地固めのため婚姻婚姻婚姻。神聖ローマ皇帝は選帝侯と呼ばれる人達に選挙で選ばれるので、この選帝侯らには媚を売りまくらなければならない。選挙は過半数取れば勝ちだからボヘミアブランデンブルクザクセンプファルツと婚姻して選挙でオーストリア大公選んでもらえるようにした。あとブルゴーニュ。ボヘミアとブルゴーニュとブランデンブルクって、面積小さくてもめちゃクソ強いから敵に回さないほうがいいよ。
選帝侯の7分の5がオーストリアに投票。ザクセンとボヘミアは自分に投票できるのずるい。史実でもオーストリアが選帝侯でもないのにずっと皇帝選挙選ばれてたのなかなかすごいと思うんだよなぁ。
ゲーム中やることは大体神聖ローマ帝国の領域増やして権威高めて、選挙選ばれたらまた選帝侯と婚姻して貢いで…の繰り返し。実際の歴史と同じ道を辿るんだね。ポーランドはハンガリーと並んででかいのにそこまで強くない国代表。ただリトアニアと組んでコモンウェルス形成されるとちょっとめんどいので早めに潰すのが吉。
アジア方面に領土拡大。神聖ローマ帝国領邦が消えると権威下がるので領邦どうしで戦争始まったら上手く仲介しないといけない。あとルターがいらんことするから帝国内でプロテスタントが流行って大変だった(神聖ローマ帝国はもちろんカトリック権威依存)。プロテスタントになった領邦と宗教戦争しまくってカトリックに改宗させまくったけど、ブランデンブルク(最強)までプロテスタントにしたからオーストリアも元気にプロテスタントに改宗。教皇に破門されると内乱起こるからヤバいんだけど、この時のローマ教皇がまさかのブルゴーニュ公(オーストリアの属国)っていうわけわからん状況だから許された。ゲームでしかありえないこういう状況は面白いね。
権威も高まり皇帝位世襲宣言認可。さらに諸侯特権廃止。これで神聖ローマ帝国の領邦は皇帝国であるオーストリア大公国の従属下に。この時点で世界最強国家になったのは間違いない。あとは領邦に命令すれば勝手に戦争してくれるし最高。
手始めにEU4ラスボス国家フランスに侵攻。あっという間にパリ陥落。
ヨーロッパに残ってた敵国のスウェーデン、フランス、アラゴンを駆逐。ついでにフランスの南アメリカ植民地も全部獲得。ちゃっかりオスマンもバルカン半島から追い出した。EU4 裏ボス国家イングランドは神聖ローマ連合海軍を持ってしてもドーバー海峡を渡れなかったので諦め。3倍の量の敵を撃沈するロイヤル海軍強すぎるて…
最後の帝国改革。レオポルト9世のもとで神聖ローマ帝国復興。いやー地図に神聖ローマ帝国って表記されるのかっこいいね。かっこよくない?
以上、これが初めてのヨーロッパ統一となりました。そろそろ世界征服したいけどやっぱ難易度が馬鹿高いからまだ無理かな〜
上峰サティ備忘録
妹から地元のイオンが潰れる旨の連絡が来た。
私の地元吉野ヶ里の隣、上峰町に「あった」イオン。地元民には改装前の上峰サティと言った方が馴染み深いかもしれない。長らくお世話になったものだ。
小さい頃から良く家族で買い物に行った。佐賀ゆめができる前は佐賀西部ではかなり大きなショッピングセンターではなかったろうか。3階建ての建物、隣接する映画館。立派なものだった。
3階のフリースペースでお化け屋敷のイベントがあった際は祖母と一緒に観に行った。勇んで入ったものの泣きながら抱えられて出てきた。
母親から貰った100円玉を片手にゲームコーナー内のムシキングの列によく並んだものだ。タランドゥスを引いた時は周りから歓声が上がった。
2005年の西方沖地震の際、私はサティ3階の100円ショップで母と妹と買い物をしていた。棚から商品が次々と落ちてきたのを良く覚えている。
1階にはミスド、2階にはマック、3階には回転焼き屋があった。休日の昼は大盛況だった。立体駐車場も満車だった。
正月は母親と福袋を入手するため開店前から並んだ。自動ドアが開くと同時に大人達が走り出す。母親も呆れながら私の手を取り走り出した。
サティは私の小学校の校区外だったので子供だけで出歩いてはいけなかった。だが、サティに遊びにいく友達が後を絶たない。見回りは強化され、摘発数も増えた。
私は中学生になった。親と買い物に行くことも減っていった。サティがイオンになることを聞いても何も思わなかった。かかりつけの歯医者から見える看板がサティからイオンに変わっただけだった。
映画館が潰れた。客足が伸び悩んだらしい。立体駐車場の3階から連絡橋が通じていたが、その入り口の跡が寂しく残っている。
高校生になった。久々に家族でイオンに来た。立体駐車場の1階は低地で雨の日はよく水没するため進入禁止になる。その日は晴れていたのに進入禁止だった。面倒なのかもうずっとこのままらしい。上の階も車はほとんどなく、1階が使えなくても特に問題はなさそうだった。
ミスドも、マックも、回転焼きも、英語教室も、祖母がハマりかけたうさんくさい宗教施設も、ゲームコーナーも、全て撤退していた。本屋は3階から2階に場所を変えた。100円ショップはなぜか拡大していた。客は本当にいない。
昔店が入っていたところは上峰町の子供達の作品展示場に変わっていた。人気はない。取り残されたガチャガチャもベンチも全てが寂しい。
閉店と聞いても何も驚かなかった。時間の問題だっただろう。記事にも書いてある通り、自身が活性化させたショッピング通りの競争に勝てなかった。ダイレックス、トライアル、ヤマダ電機、モリナガ、ドラモリ、ユートク…。色々な店が消えては建ち建っては消えた。サティの存在は、吉野ヶ里町が鳥栖市と並んで佐賀県で唯一人口が伸びている町であることに少なからず影響を残してくれた。
この建物は上峰町が何やら上手く使うらしい。かつてはここがとても大きなショッピングセンターだったのだと、地元に帰った時に自分の子供に話す日が待ち遠しい。
ち・な・み・に
この私のブログ名にある都紀女加王墓前バス停はこのイオンの建物の目の前にある。バスでここに来る人も少なくなかった。
はじめての選帝侯
日々生活していると神聖ローマ帝国の選帝侯を知っていたら良かったと思う場面に多く出くわしますね。それに備えて今回は選帝侯達を私の独断で軽くまとめました。
勝手に帝国外のプロイセンと同君連合組むわ神聖ローマ皇帝(オーストリア大公としても含む)とはしょっちゅう戦争するしほとんど勝ってしまった超軍事的選帝侯。なんでこんなに強いんだろね。世界最強と謳われたドイツ騎士団の血が流れてるのか。最終的にはドイツ帝国を築くことになる。ホーエンツォレルン家。
ベーメン王国
いやドイツ人じゃなくてチェック人やないかーーい。
ザクセン選帝侯領
ザクセン=ヴィッテンベルク公領。ちなみにザクセンとアングロサクソンのサクソンは同じ語源で両者は繋がりがある。名前がかっこいい。プロテスタント諸侯のトップ。ルターを保護したことでも有名。ここでルターがザクセンに逃げたのは幸運。当時は教皇と神聖ローマ皇帝バチバチだったから教皇もいざという時頼りになるザクセンを敵に回したくなかったからね。
↑ルターが非難した贖宥状販売を始めた張本人を選出した選帝侯。というか力あるマインツ大司教になるために贖宥状販売が始まったとも言える。マインツ大司教は聖職者の中で最上だし皇帝選挙の統括を兼ねたあたり選帝侯の中でも位は高い。
よく知らん。ヴィッテルスバッハ家。最高。多分トリーアの色違いポケモンみたいな存在。
トリーア大司教
ケルンと旗が似てる。ゲーム中でいつも勘違いしてしまう。ケルンと違ってトリーアはそこそこ強いから同盟組むけど、味方やと思って合流したら実は敵のケルンでした〜ドッキリ。誰が分かるの?
いわゆるプファルツ選帝侯領。ヴィッテルスバッハ家。そのせいで本家バイエルンに選帝侯位取られちゃった。ヴィッテルスバッハ家は北欧のデンマークとかも持ってたし内紛なければハプスブルク家より力持てたかもね。
ここまで7選帝侯
通称ハノーファー選帝侯。ハノーファーといえばジョージ1世がイギリス王になったことで有名。イギリスのハノーヴァー朝、今のウィンザー朝につながる。分割相続を繰り返してカール4世の金印勅書のきまりを破りまくった選帝侯。名前がかっこいい。
ヘッセン選帝侯
ずーーっと方伯だったのになぜか最後の最後で選帝侯位を与えられた。でもすぐにナポレオンによってライン同盟組まれて帝国解体されたので一度も皇帝選挙したことのない唯一の選帝侯。ヘッセン方伯→ヘッセン=カッセル方伯→ヘッセン選帝侯。あと、どプロテスタント。
バーデン辺境伯領
選挙したことない選帝侯。
ザルツブルク公領
選挙したことない選帝侯。
ヴュルテンベルク公領
選挙したことない選帝侯。
ヨシノガリ自由伯領
聞いたことない選帝侯。