ベルナドットという男
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男シリーズ第9弾。今回は初の西洋人、ベルナドット。こいつもまたすごい。ドラマ。
ベルナドットはフランス革命期の軍人。フランス革命の中で頭角を現し、ナポレオンのライバルとなっていく。1804年にナポレオンが皇帝に即位すると、これ以降はその下で共に戦っていく。
ナポレオンがヨーロッパを席巻する上で重要だったアウステルリッツの三帝会戦。これにより神聖ローマ帝国は解体されてライン同盟が結成される。残るプロイセン王国もイエナ・アウエルシュタットの戦いで完全に制圧された。この二つの戦いでもベルナドットは大きな功績を残している。ナポレオンと並んでまさにフランス帝国の英雄と言えるだろう。
ナポレオンとベルナドットはフランス帝国のため共に戦いながらも意見の食い違いも多く、二人の仲は上手くいかなかった。そんな時、ロシアに負けて疲弊したスウェーデン王国からベルナドットに王位を継承しないかという話がスウェーデン王国貴族から持ち上げられる。これは、かつてベルナドットがナポレオンの命令に反してスウェーデン侵攻を思い止まったこと、スウェーデン王国がボナパルト家(ベルナドットの妻はナポレオンの遠戚であった)と繋がることで後ろ盾を得ようとしたことから成り立った。
ナポレオンは別の王位継承者を立てるがスウェーデン国内でのベルナドットの人気は高かった。そして時のスウェーデン王カール13世の養子となり、名をカール・ヨハンに変更し(ここでは以降もベルナドット表記でいきます)王位継承権を獲得。
ここで王というものについて語っておきたい。王=kingはドイツ語のkönigから来ており、これはゲルマン語で血統を意味した。つまり、王とはその民族の血統を受け継いだ第一人者というわけ。ヨーロッパの各国が他国からでも王様を連れてきたのはこの血統を重視していたから。
だから、ベルナドットが王位継承権を得るのは異例中の異例。だって一介のフランス人軍人だからね。こりゃすごい。
ベルナドットはスウェーデン王国の摂政にもなり政治を行った。ナポレオンにとっては自国の軍人がスウェーデンの指導者になったことはスウェーデンをも支配下に入れたも同義であったが、ベルナドットはナポレオンへの反発を強くしていた。まず、ベルナドットはスウェーデンの経済状況からフランスによる大陸封鎖令を無視してイギリスと貿易を行う。対してナポレオンはベルナドットに無断でスウェーデンの領地を侵害し、ここに両者の関係は完全に絶たれた。
1812年のロシア遠征にはナポレオンからの出兵要請を無視したどころかロシアと密かに手を組み、ナポレオンの敗北の遠因にもなった。その後スウェーデン王国は第6回対仏大同盟にも参加しフランスへの対抗心を強める。そして1813年、ベルナドットとナポレオンはライプツィヒの戦いで相見え、遂にナポレオンを打ち破る。が、この戦いでベルナドットは同じフランス人である敵兵を殺すことに躊躇し、できるだけ和平の道やプロパガンダによる心理戦を展開していた。この行動は同盟国であるロシアに不信感を募らせら結果になり、ベルナドットは完全な板挟みの状態にあった。
1813年にはフランスの力の及ばなくなったデンマークに侵攻しノルウェーを割譲。ナポレオン退位後の1814年には一度パリに戻り、スウェーデン王国のノルウェー領有を宣言した。これが最後のフランス凱旋になった。
ナポレオンの100日天下後、行き場を失ったナポレオンの部下達をベルナドットはスウェーデンで受け入れた。また、同僚であったミュラーやネイ(共に処刑)をなんとか助けようとしたり、遺された子を預かったりと後ろめたさはあったのかもしれない。
1818年にはカール13世が死去しベルナドットはカール14世としてスウェーデン国王に即位。今現在も200年以上繋がるベルナドット朝の開祖となった。
とこんな感じ。ベルナドットはめーーちゃ波乱の人生だから興味を持ってくれたらもっと詳しく読んでみて欲しい。ナポレオンの繁栄を築き、ナポレオンの繁栄を終わらせた男だった。