EU4戦記 オーストリア編④ オスマン十字軍
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まだ若いフェルディナント1世に代わり政治を行うマグダレーナは、夫のイタリア戦争を引き継ぎ1527年にフェラーラ公国に宣戦布告。同年、神聖ローマ帝国内でも諸侯同士の争いが相次ぎ動乱の4年が始まる。
主な戦争
・イタリア戦争
・ヘルレ公国、ザクセン選帝侯国VSユトレヒト司教国、デンマーク王国
・バーデン辺境伯領、アーヘン自由都市、ニュルンベルク城伯、ラーフェンスブルク自由都市、メミンゲン自由都市VSヴュルテンベルク公国、マインツ大司教、アウクスブルク自由都市、ヘッセン方伯
動乱の中ハンガリー王国民はオーストリアの国家への統合を承諾。ハンガリー王国はオーストリアの領土となった。
諸侯の数の多いイタリア半島はなかなか一気に領土を割譲しにくい。今回はヴェネツィア海軍を破ることができず大きな成果もなく終わった。
1530年1月、オーストリアはデンマーク王国との秘密協定を持ってイングランド王国に宣戦布告。イングランド王国は新大陸経営に乗り出しており、本土にほとんど軍勢がいなかった。そこを狙っての作戦であった。
敵側同盟国はアイルランドの属国諸侯のみ。対するこちらはスカンジナビア帝国とマインツ。だが、イングランド戦はいかにしてグレートブリテン島に上陸できるかが問題である。
半年後、フェルディナント1世が正式に第4代オーストリア大公に就任。しかしこれをよく思わないスチューベンラウフ家のフランツ・ステファンがフランツ1世を僭称し反乱を起こす。オーストリア軍は大陸英領の占領に回していた部隊を反乱鎮圧に割かなければならなくなった。
フライグラーフシャフトの戦いでフランツ・ステファンの軍を破り、イングランド戦に戻ったオーストリア軍は100年戦争の結果残っていた大陸英領を全土占領(2枚目白斜線部)。だがドーバー海戦で幾度となくイングランド海軍に敗れ、グレートブリテン島上陸ができない。頼みにしていたデンマーク・スウェーデン連合艦隊も3度の北海海戦で全敗。
北海海戦を制したイングランド軍はノルウェーに上陸。これはイングランドの失敗で、オーストリア・ボヘミア連合軍はこれを殲滅することで先勝点を稼ぐことができた。そして、グレートブリテン島北部にかつてのアルバ公国をオーストリアの属国として開放することで1532年に講和。これでグレートブリテン島への大きな足掛かりを得た。
対外遠征で国内不安を逸らしてきたが、1533年にはブランデンブルクとザクセンの2大選帝侯がこぞって国教をプロテスタントに改宗。これで国内32諸侯のうち17諸侯がプロテスタントとなり過半数になった。神聖ローマ帝国位はローマ教皇によるものなので、オーストリアは今のところカトリックを維持するしかない。厳しい時代に入っていた。
1536年、オーストリアは第5次フランス戦争の準備をしていたが、ここで急遽イングランドがフランスに独立保障をしてオーストリアに圧力をかけてきた。イングランドと戦うための海軍は先の海戦で壊滅しまだ準備ができていないので今回は見送り。
1538年。軍備が整いフランス戦を行おうとした矢先、オスマン帝国に送っていたスパイからオスマンがデリー・スルタン朝のロディー朝と黒羊朝に宣戦布告をしたという報告を受けた。この機は逃せまいと大国ポーランド=リトアニア王国とカスティーリャ=アラゴン王国を誘ってオスマン帝国に宣戦布告。教皇からも十字軍の宣言が成され、ここにオスマン十字軍が結成された。
対する味方はオーストリア大公国、カスティーリャ=アラゴン王国、ポーランド=リトアニア王国、ボヘミア王国、アルバ公国、バイエルン公国、モルダヴィア辺境伯領。
ペルシアで戦っていたオスマン軍はロディー朝との戦いでなかなか軍を西に返すことができなかった。
1540年、その隙をついてかつてのビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを占領。オスマン海軍はボスポラス海峡で待ち受けるがカスティーリャ=アラゴン艦隊がこれを撃破。陸軍が戻ってきたときには十字軍はバルカンを越えアナトリアになだれ込んでいた。
1542年、終戦。オスマン帝国からはアドリア海とイオニア海の沿岸を割譲させ、ハフス朝との同盟も破棄させた。史実では1529年にウィーン包囲があったが、こちらでは逆に1540年にエディルネを包囲してやった。勢いに乗りたいところだがこの後オスマン帝国はペルシア勢力と和解しモスクワ大公国と同盟を組み、対抗心を強めていくこととなった。
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