都紀女加王墓前バス停で待つ。

長崎生まれ佐賀育ち 中高福岡大阪在住 完全趣味の自己満足ブログ。 @tsukimecha

夜のサイクリング中に聴きたい!プレイリスト

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youtubeによくある「〇〇中に聴きたい!曲10選」みたいなのが全く共感できない私です。今回は私が夜のサイクリング中に流しているプレイリストをご紹介。ちなみにイヤホンで耳をふさぎながらの自転車は基本的には❌です。気をつけましょう。私は骨伝導イヤホン使ってるので大丈夫です。

 

全12曲

 

STRAIGHT JET

最初はアニソン。ISのオープニング。このスピード感がたまらない。

Super Driver

次もアニソン。ハルヒの曲。これも疾走感あって良い。サビの後半のバスドラ連続部分がノリノリになれます。ちなみに私ハルヒの曲他にも好きなの多いんですがアニメは見たことないんですよ。

③flying

GARNET CROW1曲目。これはサビの盛り上がりが好きで入れてます。歌詞通り羽ばたいていける。

④二人のロケット

GARNET CROW2曲目。この曲は私が幼い頃佐賀から宮崎の母の実家に帰省する時に車で流れていた曲なのでその時のイメージが強い。高速道路を走る疾走感が重ね合わさっている。

⑤ハイウェイに乗る前に

BOOWY1曲目。これも夜のドライブって感じの曲。チャリでハイウェイに乗ることはないですが。

⑥WORKING MAN

「犬のように 走るunderground パンをくわえ 飛び乗る WORKING MAN」BOOWY2曲目。渋いベーシスト松井常松氏作詞のこの曲。短いですがとても良い歌。

⑦B-BLUE

BOOWY3曲目。この曲とmarionnetteは有名ですね。この曲については以前も書いたので是非→https://tsuki-mecha.hatenablog.com/entry/2020/04/16/232628

⑧FRIDAY MIDNIGHT BLUE

B'z1曲目。売れない画家兼タクシードライバーという変わった設定の歌。金曜の夜は会社員がみんな遅くまで飲んで終電逃すから忙しい。だからタクシードライバーにとってはBLUE。

⑨Crazy Rendezvous

B'z2曲目。好きな女を車に連れ込んで夜通しドライブに付き合わせる曲。こんなの聴きながら夜の街を駆けるの最高じゃないですか。

⑩Oh!Girl

B'z3曲目。彼女の家までアクセル緩めないでぶっ飛ばす曲。こんなの聴きながら夜の街を駆けるの最高じゃないですか。

11.Pleasure'98〜人生の快楽〜

B'z4曲目。この曲、いろんなバージョンがありますが98が個人的に1番。ギターの音がよく聞こえるし、この年だけ「女の裸」なんだよね。

12.BOYS IN TOWN

ラスト、 B'z5曲目。ビッグになってまたこの街に戻ってくるぜ!って曲。なんかもうこの曲の歌詞全てが私って感じ。めーっちゃ言いたいことが分かる。マジでこれ夜の街を駆ける時に聴くべき曲。待ってろよ吉野ヶ里

 

〜BOYS IN TOWN 歌詞〜

黄昏の交差点越えてさわいだセンター街
シャッターにもたれて 憂鬱な始発を待ってる

何をしたいの? 
誰としたいの? 
ときどき 臆病になるよ
行方知れずの 
将来のこと 
忘れたいけど 空まわりもいやだ!!

Someday 街をとびだして
My Way 誰もついてこなくても
Someday カッコよく戻ってやるよ
輝くボディのコンバーチブル

公園通りで 群れてひっかける殺那のハッピー
形のない愛に あいそつかして彼女は行った…

高すぎて 
手が届かないと 
ほったらかしの夢に
気付かないフリ 
でもあきらめて 
年をとるなんて No No No No!

Someday 君を飛び出して
My Way ひとりきりでも
Someday また戻ってくるよ
とびきりの女を連れて

Someday この街を越えたい
My Way 何言われようと
Someday 今も楽しいけど
もっと派手なことするのさ
We Are Boys In Town
みんなのことくやしがらせてみたい

つまずいても 
降りたら終わっちゃう 
一度きりの Our own life
不平等に 
どこかで 憧れてる 
だからだれもが Try & Try

Someday 変わりたいよ
My Way 少しずつでもいい
Someday あの人はすごいと
世界のウワサになりたい

Someday 過去を飛び出して
My Way 未知の Big Town で
Someday 勝って帰ってくるよ
運転手付のリムジンで

Someday この街を越えたい
My Way 何言われようと
Someday 今も楽しいけど
もっともっと 気持ちいいことしたい
We Are Boys In Town
こんな時もあったと微笑いたいね

 

 

 

龐会という男

前回→https://tsuki-mecha.hatenablog.com/entry/2020/04/05/193141

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男シリーズ第10弾。今回は中国三国時代の魏の武将である龐会。

 

この武将はそれほど有名では無いけど、この父である龐徳はかなり有名。まずはこちらの説明から。

 

龐徳西涼軍閥馬騰の配下として活躍した。馬騰軍随一の武将と名高い猛将であった。西涼は形式上は後漢王朝(というよりはそれを傀儡としている曹操)に従っていたが、ことあるごとに反抗的な態度を取っていた。

馬騰曹操により暗殺されると、その息子馬超曹操に対して反乱を起こす。龐徳馬超に付き従った。

馬超渭水にて曹操に敗れ漢中に流れる際も同行した。まさに忠義の武将とも言えるだろう。その後、劉備に攻められている益州劉璋から漢中に援軍要請が来たため、馬超が出陣。この時龐徳は病に侵されており同行できなかった。そして馬超はそのまま劉備に降伏してしまう。この件はかなりのターニングポイントだと思う。

 

龐徳は回復した後も馬超の元に馳せ参じようとはせず、漢中の張魯に尽くした。215年、曹操によって漢中が攻められた際も曹操軍を大いに苦しめるが最後は降伏。かつての渭水での戦然り何度となく龐徳に苦しめられた曹操だが、その勇猛さを買って将軍として取り立てた。

 

219年に劉備配下の関羽が魏領内の荊州を侵攻した際にこれを防ぐため援軍として名乗り出るが、龐徳のかつての主である馬超劉備に仕えていることから寝返りを警戒される。これに対して龐徳は棺桶を背負い、決死の覚悟であることを表明して曹操も出陣を許した。

龐徳関羽は幾度となくぶつかり、一騎打ちを行うも決着が付かない。両者とも天下にその名を轟かす武勇の持ち主だと言うことだ。とうとう陸上での決着が付かないことを悟った関羽は配下の水連達人である周倉に任せて水中戦で龐徳を捕らえさせた。

同じく捕らえられた于禁関羽に命乞いをして命だけは助けられた。一方の龐徳関羽によって味方に引き込もうとされるがこれを拒否し、曹操への忠義を貫いた。感動した関羽は自らその首を刎ねた。

曹操に仕えて30年の于禁とわずか4年の龐徳の身の振り方の差は曹操を感じ入らせた。

 

ここに忠義の臣龐徳の話は終わる。では、ここから今回の主人公である息子龐会のお話。

龐会も引き続き魏に仕えたが大きな活躍はない。ただ、263年の蜀討伐戦において鍾会の元で参陣している。同年の蜀滅亡後、彼は父龐徳の仇である関羽の一族を蜀の領内から探し出し皆殺しにした。そのため、関羽の直系の子孫は残っていない。

 

44年の因縁。忠義に生きた父と、復讐に生きた息子。

 

 

ゆめにっき⑥ 戦争

他→https://tsuki-mecha.hatenablog.com/entry/2020/01/06/233004

前回→https://tsuki-mecha.hatenablog.com/entry/2020/07/19/023154

私は戦場にいた。

兵士の装備を見るに第一次世界大戦?ごろだろうか。

そして、ライフルを背負った私は白い服の胸に青色の六芒星マークを付けられていた。

ユダヤ人兵士として扱われていたわけだ。

柱に貼り付けられた紙を見て陣列内の自分の場所を確認。私は意外と後ろの方だった。

前方の兵士から順に進軍を開始する。途中で上官?みたいな人から「お前がこんなに後ろなわけない」と言われてもっと先に行くように言われた。

渋々前の方に進むと、味方の中には赤白帽子を被った園児くらいの小さな子供の集団兵がいることを知った。

まさに玉砕戦という感じだった。

普通に味方の隊列のそばを敵兵が余裕綽々で歩き、テニスボールでキャッチボールをしながら遊んでいる。きっと両軍とも戦争の先端が開かれるのを待っていることなんだろうと思った。

 

1つの銃撃を元に戦争が始まった。

先ほどのキャッチボールをしていた敵兵はすでに後方で、急に反転して我々にライフルを向け何人か殺した後味方によって殺された。

突撃命令が下る。周りの本隊ではなく、私の所属する部隊だけ。

おびただしい銃声の中私も本隊を横目にゆっくり走り出した。

すると、本隊の中から小学校〜大学にかけての今までの友達がこちらを憐れむように見守っているのに気がついた。

 

こんなにたくさんの友達ともっと遊びたいのに。もっと話したいのに。ここまで色々あったがなんとか頑張って大学まで進んだのに。まだ親に何も返せてないのに…。みたいな感情が渦巻き、ここで死ぬことをひどく後悔した。

 

私の走るスピードは徐々に遅くなり、何も分からず突撃する園児の集団に置いていかれる。

それが私の心を一層締め付け、全てを振り切って全力で走り出した。

 

 

と、ここで目が覚めた。以上。いつものことながら実際に見た夢の話。

 

最近明晰夢が発動しません。夢の中で夢と気付けないまま終わることが多い。でも、夢の中で起きた内容、自分が抱いた感情がしっかり具体的に起きた後も残っている。そして夢の内容が不思議。夢って個人の経験で作られるものじゃないのかな?ユダヤ人の迫害とかは世界史を勉強する中でもちろん知ってはいるが、戦争に向かう兵士の主観的な映像なんて見たこともない。誰かの記憶が乗り移っているのか、それとも走馬灯か。

 

戦争ってやっぱ怖い。ダメ、絶対。

〜my garden〜

私に縁のある土地=庭をご紹介。

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⚪︎大阪府茨木市

大阪で一人暮らしを始めて4年。茨木市内の道もだいたい覚えた。大学から別段近くもなく(チャリで20分)、なんでこんなところに住んでんだとよく言われるけど、個人的には東海道本線に面し大阪にも京都にもアクセスが良いのでお気に入り。最近は市内の車校に通い始めました(こっちもチャリ20分)。

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⚪︎福岡県福岡市博多区

浪人期を過ごした大都会。1年間毎日通い続けただけだけど、浪人期という個人的に最も激動の1年を支えてくれた街ということで思い入れも大きい。何度も現状が嫌になって自習室を抜け出し博多の街を歩いた。博多駅3階改札口のベンチがお気に入りの息抜きポイント。目下に電車の入れ替わりを覗きながら「そろそろ戻るか」と気合を入れ直していた。ありがとう博多。

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⚪︎福岡県久留米市

通っていた中学校と高校がある都市。高校からは併設の寮に入ったので3年ほど久留米で過ごしていた。先輩からお下がりでもらったチャリで高良山下や筑後川を爆走した。寮の夕食のメニューに満足がいかないときは、みんなで大砲ラーメンの店まで500円玉1つ握りしめて40分歩いて行ったのも良い思い出(今は値上がりして500円じゃ足りない)。

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⚪︎佐賀県佐賀市

小学校の頃通っていた塾がある+佐賀で遊ぶところといえばココ。まぁラウワンと夢タウンしかないけど。ラウワンと夢タウンは近いから、佐賀駅からはラウワン行きのバス(無料)を使って夢タウンに行っていた。良い子は真似しちゃダメだよ(佐賀駅から夢タウンまでのバスは220円)。

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⚪︎佐賀県吉野ヶ里町

私が5歳からずーっと住んでいる町。一番の故郷。夕方5時になると公民館から「ふるさと」が流れる。親からはこれを合図に家に帰ってくるように言われていた。その昔町内の中央公園のステージには私と同級生の子の名前が相合傘してる落書きがされていたけど流石に消されてるだろうか。最高にあたたかい町だぜ。

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地元お散歩記

 

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都会の喧騒から離れて佐賀県吉野ヶ里に里帰りしてます。

 

この度はコロナの影響もあり福岡にも遊びに行かず佐賀県内で大人しくします。帰省初日の今日は毎回恒例のお散歩。

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うちの周りは木が鬱蒼と茂っています。ここは鳥ノ隈古墳という遺跡で、その跡地に鳥ノ隈城塞が築かれたみたいです。私の家はこの鳥ノ隈古墳の上にあります。

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↑写真真ん中の小高い丘が鳥ノ隈古墳。

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筑紫平野の一部である吉野ヶ里町には田園地帯が広がります。クリークが有名ですが確かに至る所に用水路が見て取れます。

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ここらへんは15年前に祖母と散歩したのが思い出されます。祖母は家から持ってきたみかんの皮をそこらへんの畑に捨てるので、私と妹がそれを毎回指摘していました。その度に「そがんいわんでよかじゃん、やーぐらしか」って鬱陶しそうに言い返されるのでした。

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田んぼを見にきたおじいさんとお話をしました。「あそこんにきの田んぼはいっちょんやな。???のせいでやられとる」って言われたのですが大事な部分がコテコテの方言とモゴモゴした口調のせいで伝わりませんでした。

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地味な難読地名、新宮田(しんぐうでん)

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最後は吉野ヶ里公園を覗いて帰りました。

ヴァイマール帝国建国記④ 帝国黎明期

前回→https://tsuki-mecha.hatenablog.com/entry/2020/07/24/122110

 

ヴァイマール家簡易家系図

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数字は称号の通し番号です

赤がヴァイマール家当主家系

 

1193年、第9代バルドマールは教皇インノケンティウス3世による第7回十字軍に参加。親戚であるヌーシャテルリトアニア王国に対する十字軍であったが、ここでバルドマールは他の諸侯を寄せ付けない活躍を見せる。これにより大きな名声を得ることとなり、「聖王」の称号を与えられる。

 

1201年、ドイツ王ヴァルター不屈王よりケルン公爵領を獲得。ドイツ王は未だジークハーディンガー朝が続いていた。

 

バルドマールはアフリカ王女ベオルンヴリャドと結婚し、この継承権を行使してアフリカ王国に宣戦布告。義理の甥にあたるアフリカ王レオヴウィネ2世を下し、1219年にはアフリカ王にも即位する。

 

1226年、バルドマールはチューリンギア王国をチューリンギア帝国に格上げ。ここにヴァイマール家による帝国が成立した。

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1229年、聖帝バルドマール死去。彼の名はヴァイマール家中興の祖として語り継がれることとなる。息子グントラムが10代目として跡を継ぐ。

 

グントラムはフランス王女デニーズと結婚し、フランス王位継承を伺った。しかしこの先フランス国内はリュジニャン家とトゥールーズ家の間で数十年に渡る内乱が続き、チューリンギア帝国内もまだ安定しないため漬け込む隙が無かった。

 

1239年、リトアニア王国よりラウジッツ公爵領を獲得。

更にはハンガリー王国ゲルゲリやシチリア女王ケラツァとも争い、バルカン半島の勢力も拡大していく。

直轄地が増えたグントラムは各地に総督を置いて地方を収めさせた。更には長子相続法も認可させ、強力な王権がここに誕生する。

 

1253年、ポメラニア王領を設置。同年、隣国フランスではトゥールーズ家とリュジニャン家の内乱に乗じてブリタニア王国のサーヌー朝が台頭し、フランスを支配下に置きブリタニア帝国が成立。チューリンギア帝国にとってはかなりの脅威となる。

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1259年、教皇ゼルギウス5世によって第8回十字軍が結成される。目的はシリアの奪還。

 

グントラムはドイツ地方の治安維持に奔走し、地方の勢力拡大は各総督に任せた。その結果力を付けたクロアチア公であるヴァイマール家のレオポルトが1274年にチューリンギア帝国に反旗を翻しクロアチア王国として独立を宣言。

グントラムはアフリカ総督の援軍を呼び6年をかけてこの反乱を鎮圧。クロアチアは再びチューリンギア帝国の支配下に入り、同じくヴァイマール家の親戚にあたるフム公レオポルト2世にクロアチア総督の称号を与えた。

 

1289年、グントラム死去。息子ランドルフが第11代目として跡を継ぐ。

 

ヴァイマール帝国建国記③ 王国の拡大

前回→https://tsuki-mecha.hatenablog.com/entry/2020/07/23/000054

 

第7代リウベルトは父ジークムントの戦争を引き継ぎ、1114年に完全勝利。因縁のリウドルフ3世からザクセン公領も獲得することとなった。

 

チューリンギア王国は未だ成立したばかりであり、混乱が絶えなかった。特にザクセンの諸侯は度々反乱を起こし、その鎮圧に時間をかけることとなる。

 

1121年、リウベルトは正式にチューリンギア王として国内諸侯からの承認を得た。このため、リウベルトがチューリンギア王初代として数えられる。

同年、クロアチア国王ウルフォに宣戦布告。リウベルトの母であるクロアチア公ヴェドラナの公爵位を奪おうとしたからである。

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1123年、アシャッフェンブルクの戦いでクロアチア軍主力を破り勝利。クロアチア公領獲得。

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1126年、教皇マリヌス2世によってアナトリアイスラム支配から奪還すべく第5回十字軍が結成される。

 

リウベルトはチューリンギア王国の継承法を末子相続とすることを決定。これで兄弟間による分割に悩まされずに済むようになった。

 

1130年、リウベルト死去。息子ジークフリートが8代目として跡を継ぐ。

 

リウベルトがドイツ王クノー2世からザクセン公領を獲得した後、クノー2世の息子ドイツ王ギュンター2世はチューリンギア王国に対して宥和政策を取っていた。ドイツ王ヌーシャテル朝の祖にあたるヴァイマール朝という親戚筋である上、敵をあまり作りたくなかったからだ。

しかし1135年にドイツ国内で反乱が起き、ギュンター2世は退位させられ代わりにジークハーディンガー朝のマインハルト1世がドイツ王位を奪還。マインハルト1世はチューリンギア王国に対して強硬策に出る。

 

1136年、マインハルト1世はジークフリートに宣戦布告。未だ8歳と若かったが、亡命してきたギュンター2世の援助とロタリンギア王サンチュの援軍によってなんとか勝利。ギュンター2世は妻の実家であるリトアニアに逃れたのちクーデターによってリトアニア王として即位し、ヌーシャテル朝はリトアニア王家として今後存続していくこととなる。

 

1144年、南ドイツにフランコニア王領を設置。

 

1147年、フリジア王家であるビルング家のゾフィーと結婚。ここのビルング家はフリジア=ヴァイマール家の血を引いており、ゾフィーは遠戚にあたる。

 

1149年、セルビア女王ビゼーラに宣戦布告。クロアチア公領の拡大のため。

 

1159年、教皇セルギウス4世によって第6回十字軍が結成される。目的はノレグル(ノルウェー)征服のため。

 

1164年、クロアチア王国ブラニミルに宣戦布告。

 

1166年、クロアチア王位をブラニミルより奪還。クロアチア王に即位。

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1170年、ハンガリーゾルターン3世に宣戦布告。これも勝利しチューリンギア王国はジークフリートの代で大きく拡大していった。

 

1183年、息子ジークフリート2世のフリジア王位継承権を主張しフリジア王ポッポに宣戦布告。フリードリヒ2世はフリードリヒとフリジア王女ゾフィーの長男である。

 

1185年、ジークフリート2世がフリジア王に即位。

 

しかし1190年、ジークフリート2世が不審者。その息子バルドマールがフリジア王を継承。

同年チューリンギア王ジークフリートも死去。フリジア王バルドマールがジークフリートの称号も継承することとなり、一気に大勢力となった。

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↑真ん中がチューリンギア王領、その下にフランコニア王領、右下飛び地がクロアチア王領、左上飛び地がフリジア王領。